大正時代の政党内閣と普通選挙|第二次護憲運動

第一次護憲運動は民衆の強い支持を得て各地に広がります。そして1913年、数万人の民衆が国会議事堂を取り囲む中、内閣は退陣に追い込まれることになりました。民衆の直接の行動が内閣を倒すというのは議会が開設されて以来、はじめてのことでした。

 

 

その後すぐに政党を基盤とする政党内閣が実現したわけではありませんでしたが、第一次世界大戦が終わるのと前後して政治の状況にも大きな変化がみられるようになります。1918年、米騒動で倒れた寺内正毅内閣にかわって立憲政友会総裁の原敬が内閣を組織します。

 

 

原は戊辰戦争のときに奥羽越列藩同盟に参加して政府軍とたたかった盛岡藩の出身でした。若いころは新聞記者をつとめ、また有力政治家になってからも爵位の授与を辞退し続けて平民のままだったことなどから、「平民宰相」と呼ばれて庶民の人気を集めます。

 

 

 

また、原は衆議院議員と総理大臣を兼任する、はじめての政治家でした。原は自分が率いる政党、立憲政友会を中心に内閣を組織しますが、この内閣はわが国で最初の本格的な政党内閣の成立を告げるものになりました。

 

 

米騒動ののち、労働運動や小作争議、社会運動などを通じて、労働者など庶民のあいだでは政治への関心が高まっていました。政党政治の実現により、庶民は選挙によって代表者を議会に送り、政治に自分たちの意見を反映させるべきだと考えます。

 

 

 

これまで、衆議院の選挙権をもっているのは、たくさんの税金をおさめている企業の経営者や地主など裕福な人々だけでした。

 

 

これに対して、税金の額などに関わらず、ある年齢以上の人々に選挙権をあたえる制度を普通選挙制といいます。普通選挙制をもとめる運動は、労働組織などを中心に大きく盛り上がりました。しかし、普通選挙の対象は帝国本国に住む男性だけでした。

 

 

 

そのため、選挙権を認められていなかった女性たちは政治への参加を主張します。第一次世界大戦後、アメリカや西ヨーロッパの国々がつぎつぎに女性参政権が認められていく世界的な流れがあったからです。平塚らいてう、市川房枝らは女性の地位向上と参政権の獲得を目指して新婦人協会を設立します。

 

 

こうした社会の様々な動きに対し、政友会内閣のあとには3代にわたって政党ではない内閣が続きました。しかし、1924年、貴族院に基礎をおく清浦圭吾内閣が成立すると、憲政会・政友会・革新倶楽部の3党は団結して反対運動にたちあがります。

 

 

この3党は総選挙で勝利をおさめて内閣を総辞職に追い込み、憲政会総裁の加藤高明を首相とする連立内閣を成立させました。
これを第二次護憲運動といいます。

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