大正時代の衣食住に関する民衆の意識|社会運動の展開

大正時代になると衣食住に関する民衆の意識も変わってきました。農村部でも新聞や雑誌を読む人が増え、小作人の意識も変わりました。地主の子供が草履に袴という姿で学校に通うのであれば、小作人の子供も同じ姿で学校に通うべきだと考え、身なりにも気を使い始めたのです。

 

 

対等な人間として認めてほしいという要求は社会のなかで様々な差別を受ける人々にとってはいっそう重要な課題でした。

 

 

結婚や就職、職場での差別に苦しむ被差別部落出身の人々は当時約300万人いたとされています。1905年に発表された島崎藤村の小説「破戒」は被差別部落出身のひとりの教員を主人公にしたものです。実在のモデルもいました。主人公の苦しみは社会からの偏見にさいなまれ、自死と隣り合わせのものでした。

 

 

 

1922年3月3日、奈良県出身の青年、西光万吉によって書かれた「人の世に光あれ、人間に光あれ」ということばとともに被差別部落解放運動の全国組織、全国水平社が創立されました。すべての差別をなくすということをスローガンにした組織です。

 

 

そして、この宣言はいまでも気高い理想をかかげ、すべての人々に共通する人権をうたいあげたものです。

 

 

差別をうけた人々は被差別部落民だけではありません。1898年に制定された北海道旧土人保護法は、政府の近代化政策により狩猟や漁労という昔から続けてきた生業を奪われたアイヌ民族を生存競争に負けて滅びていく未開の民族だと決めつけるものでした。

 

日本が植民地化した台湾の人々に対して用いられた「土人」ということばには異なる文化を尊重しようという姿勢は感じられません。このように人間らしい生活をもとめる社会運動の流れは様々な現実をかかえる人々がそれぞれの立場から自分たちの事情を広く社会に訴え、声を上げる手立てとしても大きな意味をもちました。

 

 

 

日露戦争の前後は、藩閥と政党が同じくらいの勢力を持ち、交互に政権をになう時代が続きます。いっぽう、戦争の重い負担にあえぐ国民の権利意識や政治への関心も高まり始めていました。

 

 

1912年、長州閥の桂太郎が藩閥や陸軍の支持を得て3度目の組閣をすると、軍人や官僚・貴族院といった特権階級による政治運営を横暴だとして、立憲国民党の犬養毅や立憲政友会の尾崎行雄らの政党人を中心にジャーナリストや知識人たちが、藩閥政治の打倒と憲法を尊重する政治を実現することを合言葉に桂内閣の退陣をもとめて立ち上がります。

 

 

この一連の動きのことを第一次護憲運動といいます。

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