国際連盟という組織(大正時代)

国際連盟の集団安全保障の考え方は早い段階から挫折していました。大国アメリカが国際連盟に不参加で、はじめはドイツやソビエトも国際連盟に参加しておらず、加盟国にはかたよりが見られたのです。また、その議決は全会一致が原則で、しかも武力制裁をおこなうことができませんでした。このため、集団安全保障は実際には機能しなかったのです。

 

 

しかし、戦争防止や民族自決という思想の広がりはあからさまに他国を侵略・支配することを認めない国際的な規範意識を高めることになりました。そのため、このころから、新たに植民地を獲得することが許されなくなります。

 

 

しかし現実には植民地体制そのものは、かたちを変えて世界に拡大していきました。支配のありかたが重層化していったのです。列強が植民地支配にかわって取り入れたのは、国際連盟が特定地域の統治を適当な国に任せる「委任統治」という方法です。

 

 

これにより、イギリスの委任統治領パレスチナなどがうまれました。日本も、大戦中に占領していた、それまでドイツ領だった南洋諸島を国際連盟からの委任統治領として獲得します。日本はそこに南洋庁を設置して、植民地と同じように統治しました。

 

 

 

なお、講和会議で国際連盟規約をつくる過程で日本は人種差別をなくす内容を織り込むことを主張しました。念頭に置かれていたのはアメリカで暮らす日本人移民がいぜんとして厳しい差別のなかにあったことです。

 

 

 

日本人がアジア人というだけの理由で差別されている状況を解消しようと、加盟国は外国人を公正に処遇する、人は国籍や人種によって差別されない、といった内容の記載をもとめたのです。これは画期的な提案でした。会議では賛成が反対を上回ります。しかしアメリカやイギリスはこの導入による自国の混乱を懸念し、結局重要事項は全会一致が原則だとして、この提案は受け入れられませんでした。

 

 

このあとで見ていくように、このころの日本が人種や民族、あるいは文化が異なる人々を、どのようにとらえ待遇していたかは、別の角度からも検討の必要があります。しかしこの時期に新時代を切り開く様々な議論が国や地域をこえて始まりだしたことは知っておかなくてはいけません。労働問題や難民問題への国際的な取り組みも始まりました。

 

 

国際機関はたしかに、列強の利害を調整する役割を果たせなかったこともありました。しかし、通信やラジオ、新聞や雑誌といったマスメディアの普及によって、平和や人権に取り組む人々の声が国際的に共有されるようになっていったのです。

関連ページ

普通選挙法と治安維持法
恐慌のはじまり
大正時代のアジアのナショナリズム
大正時代の列強の対立ー三国同盟と三国協商ー
第一次世界大戦
第一次世界大戦への日本の参戦と二十一カ条の要求
第一次世界大戦中のロシア革命とソビエト政府
第一次世界大戦でのアメリカの参戦と講和への道
講和会議とベルサイユ条約
総督府による武断政治とは
三・一独立運動と五・四運動
大正時代の日本による朝鮮・中国支配から独立運動の広がり
中国とインドの独立
大日本帝国の拡大(大正時代)
大正時代の米騒動のはじまり
大正時代の労働運動の広がり
大正時代の衣食住に関する民衆の意識|社会運動の展開
大正時代の政党内閣と普通選挙
大正時代の政党内閣と普通選挙
大正時代の民本主義と国政調査|大正デモクラシー
大正時代の都市と郊外の発達
大正時代の文化の広がりと世界恐慌
世界恐慌とナチス登場
ナチスの台頭とブロック経済
昭和恐慌と軍縮会議
満州事変と五・一五事件
大正時代、国際連盟からの脱退
治安維持法と満蒙開拓団、帝国の拡大と再編
満州国と日本の進出
大正時代、加速する戦争
日中戦争の始まり
広がるファシズム運動
大正時代の日本軍の中国侵攻
大正時代の「抗日」が持つ意味
大正時代の戦争への動員体制
大正時代、朝鮮に対する皇民化の強化
アジア太平洋戦争への道
第二次世界大戦のはじまり
大政翼賛会
真珠湾攻撃
大東亜共栄圏の建設
大正時代の戦場での生活・銃後の生活
アジア・太平洋戦争における空襲と学童疎開
アジア・太平洋戦争での沖縄戦での犠牲
アジア・太平洋戦争、連合国の戦後構想
アジア・太平洋戦争原子爆弾の投下
原爆投下の影響
アジア・太平洋戦争終戦後の新しい世界の幕開け
ポツダム宣言
民主主義への道のり
敗戦国となった西ドイツと日本の違い