講和会議とベルサイユ条約

パリ講和会議の立役者はアメリカのウィルソン大統領でした。彼が提案した「14カ条の講和原則」の検討をもとに戦後処理はおこなわれました。戦勝国となったイギリス・アメリカ・フランス・イタリアとならび日本は5大国のひとつとして、この会議に出席しました。

 

 

ソビエトに対する戦争(シベリア出兵)が続く中での会議です。日本は5大国といっても発言は控えがちで会議を主導するような立場ではありませんでした。

 

 

大戦の講和条約であるベルサイユ条約はイギリス・フランスの強い要求で、ドイツに軍備縮小と多額の賠償金が課されました。ドイツの海外植民地はすべて没収され、領土の一部は周辺地域に割譲されました。

 

 

講和会議で中国は山東省でドイツが持っていた権益を中国に返すことや、日本の「二十一カ条の要求」の廃止を訴え、アメリカもそれを支持しました。しかし日本は山東省のドイツの権益を日本がうけつぐことが認められなければ、国際連盟規約に調印しないと応じます。最終的にはアメリカも妥協し、日本の主張が通りました。

 

 

 

講和会議の結果、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシア・オスマン帝国の支配下におかれていた地域では、ウィルソンが提唱した「民族自決」の原則にもとづいて、多くの独立国がうまれていきました。

 

 

いっぽうでは戦勝国であるイギリスやフランス、アメリカなどの領土では、この原則が反映されることはありませんでした。

 

 

「14カ条の講和原則」を受け、ベルサイユ条約で創設することがきまっていた国際連盟が1920年に誕生しました。「国際連盟の父」となったウィルソンは一連の功績により、ノーベル平和賞を受賞しました。

 

 

しかし、アメリカ自体は議会の強い反対で、結局国際連盟に加盟することはありませんでした。連盟創設にあたって、日本はイギリス・フランス・イタリアとともに常任理事国となり、新渡戸稲造が事務次長をつとめました。国際機構をつくり、国際法をさらにととのえ、それを守り合うことによってナショナリズムや各国の利益の対立を調整していこうという考えが、かたちとなって出現したことは人類史上、画期的な出来事でした。

 

 

 

国際連盟では、戦争が起こるのを防ぐために集団安全保障という考え方を取り入れました。加盟国同士はつねに平和維持を目指し、なにか問題が起こった場合には問題に関係している国だけでなく、加盟国全体でその問題解決につとめ、戦争を防止しようというものです。

 

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