第一次世界大戦でのアメリカの参戦と講和への道

1918年1月にアメリカ大統領ウィルソンは講和の条件と戦後の国際秩序にかんする構想を14カ条にわたって提案します。

 

 

第一次世界大戦で中立を守ってきたアメリカは、戦争景気にわきたっていました。しかし、ドイツ軍の潜水艦の無差別攻撃で、イギリスの旅客船に乗っていた自国民も被害をうけます。このような情勢のなか、アメリカはついに1917年4月に参戦します。これは戦局を大きく変え、あやうかった連合国の優勢を導きました。

 

 

ウィルソンの「14カ条の講和原則」にある、秘密外交の禁止、海洋の自由、軍備の縮小、植民地問題の公正な処理、民族の自決、平和のための国際機関の設立などの提案に、イギリスなどは様々な留保をつけました。しかし、これにかわる展望はしめせず、結局は受け入れました。

 

 

 

1918年11月にドイツが降伏して、ようやく第一次世界大戦は終わりました。しかし、一方では新たな戦争がはじまっていました。ソビエト・ロシアに対する戦争です。満州での鉄道権益をさらに広げていきたいと考えていた日本にとって社会主義政権の誕生は衝撃でした。日本はアメリカから、ともにシベリアに取り残されていたチェコ軍団を助け出すことを名目に、ロシア革命に干渉する戦争への参加を呼び掛けられると求められた兵力よりも多い兵力を北部満州やシベリアへと送り込みます。

 

 

これは列強最大の部隊でした。第一次世界大戦後、絶大な経済力をもって、それまで以上に世界で発言力を高めるようになったアメリカは、大戦中の日本の「二十一カ条の要求」に対する非難に引き続いて、日本の行動に警戒を強めていきます。

 

 

長期にわたった第一次世界大戦が終わると、人々は二度とこのような戦争を体験したくないと反戦意識を高めるとともに平和への思いを熱くします。1919年にはパリで講和会議が開かれ、国際社会では戦争を起こさないための制度づくりが本格化します。なかでも象徴的なのは国際連盟の創設です。

 

 

 

しかし、イギリス外交官出身の歴史家E・H・カーは、この1919年から39年までの20年間を「危機の20年」という視点でとらえました。国際協力や平和のための様々な努力がなされたとはいえ、結果として人々は第一次世界大戦の教訓をいかせず、1939年に第二次世界大戦を引き起こします。これはどうしてなのでしょうか。まずは、この「戦間期」の前半の、日本では「大正デモクラシー」にあたる時代の歩みをたどりながら考えていきたいと思います。

 

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