大正時代の列強の対立ー三国同盟と三国協商ー

激しさをます列強の対立

 

新興国ドイツは、となりの大国フランスをけん制するために1882年にオーストリア=ハンガリー、イタリアと秘密の同盟を結んでいました。三国同盟と言われます。また、ドイツは勢力を中東にまで広げ、イギリスの権益をおびやかします。イギリスは危機管理を強めますが、対立するロシアがアジアで南下をすすめ、中国への介入を深めていることにも対処しなければなりませんでした。さらに南アフリカでも戦力が必要なイギリスは、日英同盟(1902年)、英仏協商(1904年)を、あいついで結ぶことで対抗しました。ついにイギリスは日露戦争後にロシアとも英露協商(1907年)を結びます。これにより、イギリス、フランス、ロシアによる協商関係がひとつになり三国協商が形成されます。

 

 

 いっぽう、この時期の東ヨーロッパではオスマン帝国、ハプスブルク帝国、ロシア帝国の支配下におかれた人々のあいだで民族で結束して自決権の確立を目指す民族自決の動きが活発化していました。

 

 

 しかし、広大な帝国のなかにさまざまな民族がくらす地域があちこちに散らばって存在していた東ヨーロッパでは、ひとつの民族が民族国家をつくろうとすると、必ず他の民族がくらす地域を取り込むことになってしまいます。とくにバルカン半島ではこの問題は深刻でした。民族対立が高まって、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」といわれるような不穏に状況になっていきます。

 

 

 そのようななか、1914年6月28日、自国軍を視察するためにボスニアの州都サラエボにきていたオーストリアの皇太子夫妻が独立をもとめるセルビア人の青年に射殺されました。サラエボ事件です。ボスニアにはスラブ系のセルビア人が多く、人々はとなりのセルビア王国との合併に期待していました。しかし、オーストリア=ハンガリー軍がボスニアを占領し、ついには併合支配していたので、人々のあいだに不満が高まっていたのです。

 

 

 この事件は瞬く間にヨーロッパ、そして世界を巻き込んでの戦争に発展しました。はじめはそこまで拡大するとはみんな考えていませんでしたが、事件に西欧列強が介入し、第一次世界大戦がはじまります。サラエボ事件にはセルビアがかかわっているとし、セルビアの制裁にのりだすオーストリアに同盟国のドイツはこれを勢力拡大の絶好の機会ととらえます。オーストリアのセルビアに対する宣戦は三国同盟と三国協商との対立からうまれた戦争がヨーロッパ一帯に連鎖して広がったのです。

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