普通選挙法と治安維持法

加藤高明は、ともに総選挙を戦った立憲政友会と革新倶楽部とあわせた3党による連立内閣を組織しました。

 

 

そして1925年、公約どおり普通選挙法を制定し、満25歳以上の男子であれば直接国税を納めていなくても投票できるとあらためられました。これにより、有権者数はいっきに約4倍に跳ね上がりました。

 

 

 

 すると懸念されるのは社会主義勢力の拡大です。そこで内閣は同時に治安維持法を制定しました。これは国の体制の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社を禁止する法律です。

 

 

この国の体制とは天皇制のことを指します。私有財産制度の否認とは共産主義をとなえることです。共産主義は天皇制を否定する思想なので、要は共産主義の団体を取り締まるための法律をつくったのです。

 

 

 実際のところロシア革命の影響ですでに3年前に日本共産党が非合法に結成されていました。しかも、この1925年には日ソ基本条約を結んでソ連との国交を樹立していたため日本国内で共産主義勢力がさかんになる危険性が心配されていたのです。

 

 

 

 そういったわけで、下層民にも選挙権をあたえて不満を減らす措置をする一方で共産主義は治安維持法で厳しく取り締まるというわかりやすい「アメとムチ」の政策だったのです。

 

 

 そしてこのころには西園寺公望以外の元老は全員この世を去っていました。これ以後は西園寺が最後の元老として首相を選び続けることになるのです。

 

 

 以前から西園寺は加藤高明を嫌っていました。なぜならかつて外務大臣として二十一か条の要求をぶつけた人物だからです。さらに政友会内閣が英米協調路線をとってワシントン会議に参加したときには加藤率いる憲政会はこれに強く反対したため、その点でも西園寺は加藤を良くは思っていなかったのです。

 

 

 

 このため加藤高明が組閣するにあたって憲政会は協調外交路線に転換し、外務大臣にワシントン会議に参加したことのある幣原喜重郎を起用しました。もっとも加藤と幣原はともに三菱財閥の祖である岩崎弥太郎の娘を妻としている間柄だったために縁遠かったわけではありません。

 

 

 さてそうなると立つ瀬がなくなるのが立憲政友会です。第一党の座を奪われて次こそリベンジしようというのに憲政会と同じ外交政策をとっていては存在意義がありません。

 

 

そこで外交路線を積極外交に転換し、総裁に田中義一を迎えました。
 この田中はなんと長州・陸軍出身で山県・桂の直系にあたる人物でした。その際に護憲三派のひとつ革新倶楽部が政友会に合流したため3党の連立は崩れました。

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