第二次護憲運動

 のちに昭和天皇となる裕仁親王は、病にある父の大正天皇をたすけて摂政をつとめていました。1923年、その裕仁親王が無政府主義者に襲われる事件がおこりました。虎の門事件です。その責任をとって第二次山本権兵衛が総辞職すると、ついで清浦圭吾内閣が成立しました。

 

 

 清浦圭吾は内務省の官僚として山県有朋に認められ、その後、貴族院議員になり山県系の貴族院勢力を率いていました。このため貴族院議員を中心に組閣し衆議院の議会を無視する超然内閣を組織したのです。

 

 

 これに反発したのが憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の「護憲三派」とよばれた三党です。しかし、逆に清浦内閣を支持した政党もありました。立憲政友会から分裂してできた政友本党です。

 

 

 

 立憲政友会はかつて普通選挙法に反対していたものの、大正デモクラシーが広まるにつれ、普通選挙を認めるものがあらわれて内部対立が生まれていました。清浦内閣が成立すると普通選挙を認める勢力が清浦内閣に反発したのに対し、逆に普通選挙に反対する勢力は政友会を離党し、政友本党を結成して清浦内閣を支持したのです。

 

 

 超然主義の姿勢をとる内閣を支持するというのは理解しづらいかもしれませんが、ライバルが白というなら自分は黒と言い張るのが政治家です。立憲政友会が「内閣打倒」を叫ぶなら政友本党は「内閣を支持して助けよう」となるのです。

 

 

 政友本党は本家の政友会を超える議席数だったため、それを味方につけた清浦首相は自信を持ち、総選挙で決着をつけようとしました。投票できるのは国民のわずか5%の富裕層だけです。彼らが普通選挙など望むわけがないだろうと踏んだのです。

 

 

 しかしフタをあけてみると護憲三派の圧勝でした。なんと富裕層にも大正デモクラシーは浸透しており、彼らでさえも普通選挙を求めたのです。なんとも見通しの甘い首相でした。

 

 

 

 総選挙の敗北をうけて清浦内閣が総辞職すると、元老・西園寺公望は衆議院第一党となった憲政会の総裁である加藤高明を首相に推薦しました。これ以後8年間続く政党内閣「憲政の常道」の始まりです。

 

 

 憲政会といえば原内閣が政友会を圧勝に導いたころから「苦節十年」を耐えてきた政党です。それがついに逆転して政治をする側になったのです。もっともその理由は政友会の自滅でした。政友会の普通選挙反対組は時代の変化を読み取って、それを政治に反映させ、民衆の意思を実現することができずにみずから滅んでいったのです。

 

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