水野忠邦と天保の改革

 1841年から43年までの2年あまり、老中首座として天保の改革を推進していたのが水野忠邦です。この改革は享保の改革と寛政の改革の両方を手本にしておこなわれました。

 

 

 水野忠邦は1794年、肥前国唐津藩主の家に生まれ、19歳で藩主になりました。その後、奏者番や寺社奉行など幕府の要職をつとめ、領地を浜松に移して遠江国浜松藩主となります。1834年には老中となり、のちに老中首座となったのです。

 

 

 天保の改革ではまず社会を安定させるために物価をおさえることを重視しました。水野は物価が上がる原因を庶民のぜいたくのせいと考え厳しい倹約令をだします。まず庶民の娯楽だった歌舞伎や寄席を厳しく取り締まり歌舞伎役者の7代目市川団十郎の贅沢な暮らしをとがめ、江戸から追放して見せしめにしました。

 

 

 また、流通を独占していた株仲間を解散させ、商品の流通量を増加させて価格を下げようとしました。さらに乱れた風紀をただすことを目的に出版に対する取り締まりも厳しくしています。為永春水や柳亭種彦は彼らの作品が風紀を乱すとして罰せられました。

 

 

 1843年には出稼ぎなどのために江戸にやってきた農民たちを強制的に村に帰し、農村の復興をはかる「人帰し令」を出します。同年には幕府の権力を強めることと年貢の収入を増やすことを目指して江戸と大坂周辺の大名や旗本の領地を幕府領にかえる上知令をだしました。しかし上知令は大名・旗本・農民の激しい反対にあい、実行できませんでした。これは、大名や旗本にお金を貸している町人や農民が領主が代わることによって貸しているお金を踏み倒されることや新しい領主が年貢を増やすことを心配して領地替えを反対するように団結したのです。

 

 

 この天保の改革はあまりにも急激で、様々な規制を強めたので経済活動は滞りました。また、株仲間を解散させたことも、かえって流通を混乱させました。当時、水野は物価を押し上げているのは株仲間だとして解散させたのですが、実際に物価を押し上げている原因は品不足だったのです。それでも商品を流通させていた株仲間を解散させてしまったため、流通させる機能が止まってしまったのです。

 

 

 このころ松平定信が同じように規制を強めすぎて改革が失敗したように水野も失敗したことで、これを皮肉る声が上がりました。こうして様々な批判や反対運動のなかで水野は2年あまりで失脚していきました。天保の改革の失敗は幕府の弱体化をますます進めていく結果となりました。

 

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