松平定信と寛政の改革

 田沼意次にかわって幕府の政治を主導したのは、陸奥国白河藩主の松平定信でした。定信は徳川将軍家の一族である御三卿のひとつ田安家の出身で8代将軍吉宗の孫にあたります。天明の飢饉のとき、仙台藩や津軽藩など東北諸藩に大きな被害がでるなか、定信の白河藩では日ごろから飢饉に備えて米を蓄えていたため餓死者が一人もでなかったと言われています。こうした能力が評価され、まわりの期待のもと、定信は1787年に30歳で老中になりました。

 

 

 定信は商人との関係を強めた田沼時代の政治をあらため、吉宗の享保の改革を手本にして1793年までの約6年間、政治改革をおこないました。これを寛政の改革といいます。

 

 

 定信はまず江戸の都市政策として石川島に人足寄場をもうけました。このころ江戸には、飢饉や災害、おもい税の負担などを逃れるため家出をするなどして戸籍から外れる無宿人とよばれる人々がたくさんいました。定信はこうした無宿人を人足寄場にあつめ、職業訓練を施して社会に復帰させる政策を行ったのです。

 

 

 また、定信は荒れ果てていた農村の復興もはかりました。1790年には日雇いなどの仕事をもとめて江戸に流入した農民に対し、お金をあたえて村へかえるをすすめる旧里帰農令をだしています。

 

 

 いっぽう農村に対しては出稼ぎを制限し、飢饉にそなえて蔵を作り、米を蓄える囲い米の制を全国規模で行いました。さらに幕府の資金を有力農民に貸し付け、その利息により荒れた田畑を再開発させたり、逃亡した農民を村へ帰らせたり、子どもの養育費にあてさせたりしました。

 

 

 しかし、いっぽうでは幕府は学問や思想を厳しく取り締まりました。儒学の一派である朱子学を公式の学問として奨励し、朱子学以外の学問を禁止しました。湯島聖堂に付属する林家の学問所では朱子学以外の講義を禁止し、朱子学を学ぶ者でなければ幕府の役人になれないようにしました。これを「寛政異学の禁」といいます。こののち湯島聖堂の学問所は幕府が直接支配することになり、昌平坂学問所と名を変えました。

 

 

 また、小説家の山東京伝が書いた本を風紀が乱れるとして、京伝を50日のあいだ手錠にかける刑にし、出版元の蔦屋重三郎も罰しました。

 

 

 しかし寛政の改革は享保の改革と同じく規制を強める政策が多かったので、人々の反感を買いました。経済も滞りはじめ、定信はわずか6年で老中を引退しました。
 厳しすぎる改革に対する不満は武士や庶民に間に大きく広まっていたのです。

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