8代将軍吉宗誕生

1716年、7代将軍家継が6歳で亡くなると徳川本家の血統が途絶えました。このため御三家の一つ紀州藩の藩主だった徳川吉宗が8代将軍となります。2代将軍秀忠の血を引く徳川本家以外の者が将軍になったのは、これが初めてでした。

 

 

 吉宗は紀州藩徳川家の四男にうまれました。母親は農民の娘だったとも、罪を犯したものの娘だったとも言われ、身分の低い女性だったようです。そのため吉宗は生母の身分が高かった兄たちと差別されて育ったと言われています。

 

 

 長男ではなかった吉宗は独立して自分の家を作ることができない「部屋住み」という身分で長男の世話をうけて暮らしていました。あるとき江戸の青山にあった紀州藩邸から筑後国久留米藩藩主有馬則雅の大名行列が通るのを見て「自分も一生に一度はあのような行列を整えてみたい」と言ったという有名なエピソードがあります。

 

 

 吉宗は14歳のときに、越前国に3万石の領地を与えられました。本来領地を与えられるはずではなかったのですが、5代将軍綱吉と老中大久保忠朝のはからいで領地を持てたと言われています。このため吉宗は綱吉と大久保に深い恩義を感じたと幕府の記録である「徳川実紀」に記されています。どちらにせよ吉宗の立場が将軍から遠い存在であったことはわかります。

 

 

 その後、紀州藩主の長兄徳川綱教が41歳で亡くなり、そのあとを継いだ次兄の頼職も26歳で亡くなりました。このため吉宗は22歳で突然紀州藩の5代藩主となりました。

 

 

 紀州藩主になった吉宗は藩の財政の建て直しと風紀の引き締めにつとめました。その結果、藩の体制は立ち直り紀州の名君として広く社会に知られるようになりました。

 

 

 吉宗の身長は182cmを超え、男性の平均身長が160cmもなかった江戸時代ではかなり体格がよかったようです。

 

 

 紀州藩2代藩主だった父親の光貞が藩士として召抱えていた力士と相撲をとったときも相手を軽々と投げたという記録が残っています。

 

 

 また、吉宗が紀州藩主だったころ狩りにでかけたとき、大きなイノシシが飛び出してきました。これを見た吉宗は鉄砲を2発撃ちましたがイノシシは止まることなく迫ってきました。供の者がうろたえるだけでしたが吉宗はあわてずに鉄砲を構えなおしてイノシシの眉間めがけて鉄砲を撃ち仕留めました。これは吉宗が体力だけでなく豪胆さを持ち合わせていることを示しています。

 

 

 1716年、吉宗は紀州藩主から将軍になりました。このとき御三家の中でも紀州藩より家の格が高い尾張藩主の徳川継友ではなく吉宗が将軍になったことは後々まで尾を引くことになります。

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