方広寺鐘銘事件と大阪の陣

 

 家康は豊臣が完全に滅ぶまでは安心できないと考え、ついに動き出します。

 

 

1596年に豊臣秀吉が建てた方広寺が地震で倒れると家康は秀頼に修理をすすめ、これは1612年に再建されました。豊臣氏はこれに莫大な費用を使うことになりました。さらに秀頼が寄付した鐘に記された文字にいいがかりをつけました。「国家安康」「君臣豊楽」の文字が家康と言う名前を切断して、豊臣が君主になるということを意味するというのです。このいいがかりにはかなり納得のいかない大名も多かったようですが、徳川の命令に逆らうことができず、兵の準備を始めました。これを方広寺鐘銘事件といいます。

 

 

 これに対して1614年7月、家康は豊臣氏に条件を出し、受け入れるようにせまりました。その条件とは秀頼または母親の淀君が江戸に移住すること。あるいは秀頼が大阪城を出て、他の国へ移転するというものでした。しかし豊臣氏はこれを拒否し、片桐且元など家康との和解を主張するものたちを大阪城から追い出しました。さらに多数の浪人を召抱え、徳川との対決の姿勢をしめしたのです。

 

 

 このころ、関が原の戦いで家が取り潰された武士たちの多くが浪人となっており、しかもこの浪人たちは徳川に反感を持っているものが多かったために豊臣に味方するものが続出したのです。しかもこの浪人の中に後藤基次、真田信繁、毛利勝永、明石全登などの戦上手なものが居たことが、この戦いを激しいものとしたのです。

 

 

 このような豊臣氏の動きに対して家康は1614年10月に大阪城攻撃を決定し、諸大名に出陣の命令を出しました。徳川軍は約30万、豊臣軍は約13万です。

 

 

 本格的な戦闘が始まりましたが、大阪城の守りは堅く、浪人たちの奮闘もあって決め手がありませんでした。これを大阪冬の陣といいます。12月になって講和が成立しましたが、その条件のひとつに大阪城の本丸を残し、二の丸と三の丸の堀を埋めるということがありました。しかし家康は約束を破って本丸の堀まで埋めてしまいました。これにより大阪城の防衛力はほとんど機能しなくなりました。

 

 

 翌1615年4月、家康は秀頼に大阪城から出て行くよう要請しましたが豊臣氏はこれを拒否。そして5月に家康は大阪城への攻撃を再開しました。前回と違い、外に出て戦うしかできない豊臣方は後藤や真田などの武将たちが次々と戦死し、5月7日には大阪城は落ち、8日には秀頼と淀君が自殺して豊臣氏は完全に滅びました。これを大阪夏の陣といいます。こうして徳川氏の全国支配が確立したのです。

 

 

関連ページ

関が原の戦いと幕府開設 
幕府のしくみと徳川家光の政治
江戸幕府の役職と支配 大老・老中・若年寄・奉行とは
江戸時代の身分制度 士農工商
江戸時代の農民の自治とゆるやかな身分制
江戸時代の中国と朝鮮と朱印船貿易
江戸時代 日本町と鎖国への道
江戸時代のキリスト教の弾圧
島原・天草一揆
南蛮船来航禁止と鎖国と対馬
鎖国中の長崎の窓口
江戸時代、鎖国中の薩摩の窓口
鎖国中の松前の窓口
江戸時代の交通と流通の発達
江戸時代の農業の発達
江戸時代の政治-武断政治から文治政治へ-.
江戸時代の幕府の浪人(牢人)対策
江戸時代将軍綱吉と生類憐みの令
新井白石の正徳の治
8代将軍吉宗誕生
享保の改革
享保の改革 目的・内容・成果
9代将軍徳川家重の時代
老中・田沼意次による田沼政治と重商主義
松平定信と寛政の改革
江戸時代の藩政改革とすぐれた藩主(名君)
大塩平八郎の乱
水野忠邦と天保の改革
江戸時代の学問の発達
江戸時代の出版、川柳、狂歌
江戸時代の化政文化とは
江戸時代の文化-浮世絵などの絵画
江戸時代の医学 蘭学の発展
国学の展開と江戸の教育
江戸時代のロシアの南下
欧米の進出とアヘン戦争
江戸幕末の幕府内部の対立
日米修好通商条約の影響と尊皇攘夷思想
安政の大獄と桜田門外の変
生麦事件と尊王攘夷
新撰組と尊皇攘夷志士
討幕派の形成と民衆運動
世界を知る男、ジョン万次郎
江戸幕府の終わり
坂本竜馬の生涯
大政奉還と王政復古
江戸城開城