江戸時代の幕府の浪人(牢人)対策

 江戸時代初期は大名が取り潰されて浪人(牢人)が増加していました。その原因のひとつに武家が当主の死の直前に急に養子を決めることを禁止する「末期養子の禁」がありました。死の直前になってとる養子を末期養子といいます。これは江戸時代の初期にはほとんど認められませんでした。その結果、あとつぎがいなくなった武家が改易され、多数の牢人が発生したのです。

 

 

 たとえば1602年から約50年間に末期養子が禁じられていたために改易・減封された大名は58家あり、幕府が没収した領地は430万石にのぼりました。これはこのころに大名を処罰して没収した石高全体の43%あまりをしめます。この結果約10万人の牢人が発生したといわれています。

 

 

 慶安事件が決着したのちの1651年12月、老中たちは江戸城内で社会に不安をもたらす牢人について対策を話し合いました。その中には牢人すべてを江戸から追放しようとする案や、それでは解決にならないという意見もありました。このころ老中たちの間でも武断政治と文治政治が対立していたのです。この会議の翌日、幕府は「末期養子の禁の緩和令」を出しました。この法令は50歳以下の人が死の直前になって急に養子をとることを願い出た場合、養子になる人物の家柄や血統がたしかであれば認めるというものです。

 

 

 こののち1652年に軍学者の戸次庄左衛門を中心とする牢人たちが江戸で老中を襲って天下をくつがえす計画を立てていることが発覚します。これを承応事件といいます。幕府はこれに対して牢人たちの名前を奉行や代官に登録させて管理する牢人改めを実施しました。これにより、牢人たちが幕府に正面から反抗することはなくなりました。

 

 

 家綱政権の文治政治は、こののちさらに推し進められます。1663年には主君のあとを追って切腹して死ぬことを禁じた「殉死の禁」が出されます。戦国時代には家臣が主君のあとを追って切腹して死ぬことは立派なことと考えられていました。殉死者の一族は手厚くもてなされることもあり殉死が流行していたのです。しかし、この殉死の禁によって主君が死んだあとも後を継いだ新しい主君に仕えることが義務付けられました。武士は主君個人に仕えるという考えが否定され、その家につかえるものとされたのです。

 

 

 また1665年には幕府に人質を出すことを廃止しました。殉死を禁止し、人質を解放したことは戦国時代から残っていた古い習慣をあらためることになり、文治政治を印象付けました。

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