島原・天草一揆

 1637年10月から翌年2月にわたって肥前国島原と肥後国天草で大規模なキリシタン一揆である島原・天草一揆がおこりました。
 島原地域はもともとキリシタン大名の有馬晴信の旧領だったので、キリシタンである有馬氏の旧臣たちが勢力をもっていました。そこへ宣教師がマカオやマニラから次々に渡来し、かくれて布教活動をおこなったのです。こうした状況に対して、あたらしく領主になった松倉氏はキリシタン弾圧を徹底し、きびしい年貢の取立てを行いました。

 

 

 天草地域もまたキリシタン大名小西行長の旧領でしたが、関が原の戦いののち肥前国寺沢氏の領地になり、ここでもきびしい検地による年貢の取立てやキリシタン弾圧がおこなわれました。

 

 

 このような背景のなか、1634年以来の凶作をきっかけに1637年10月、島原の農民が領主松倉氏のきびしい支配を批判してたちあがりました。彼らは松倉軍を破り、天草の農民もこれに呼応します。小西氏旧臣の土豪益田好次の子といわれる天草四郎時貞を中心に、浪人グループが一揆の指導者となりました。そして旧有馬氏の城であり、このとき廃城になっていた原城に総勢37000人あまりでたてこもったのです。四郎はキリシタンをすくう神の子として尊敬されるいっぽう農民たちを励ましていきました。

 

 

 幕府は、三河国深溝藩主の板倉重昌を指揮官に任命して現地に送り、天草周辺の諸藩の兵を集めました。1638年重昌は原城にたてこもる一揆勢に対して総攻撃をおこないましたが抵抗は激しく重昌は戦死しました。

 

 

 その後、「知恵伊豆」と呼ばれる有能と評判の高かった老中の松平信綱が指揮官として現地に到着しました。信綱は原城の包囲網を強化し、城内への食料の補給を断ち切り「干し殺し」といわれる兵糧攻めを実行しました。さらにオランダの援助を受け、原城にむけて海上から砲撃をおこなわせました。これに対し、城内から手紙のついた矢がはなたれ「日本には多くの立派な武将がいるのにオランダ人に加勢を頼むとはどういうことか」と信綱は非難されました。大名の中からも農民の反乱を日本の武士が鎮められないのかと幕府を批判する声がでました。

 

 

 こののちも一揆勢は粘り強く戦いますが、武器や食料の補給がないため、2月末についに原城は攻め落とされ、一気に参加した人々は皆殺しにあいました。

 

 

 後に島原領主の松倉氏は改易され、天草領主の寺沢氏も断絶しました。

 

 

 この一揆は農民一揆でありましたが、キリシタンが多く参加していたため、幕府はキリシタンの反乱と認識し、いっそうキリスト教の禁教を徹底していきました。

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