関が原の戦いと幕府開設 

1598年に豊臣秀吉がなくなると豊臣政権の内部では奉行としておもに行政を担当していた石田三成小西行長などの文吏派と、おもに軍事を担当していた加藤清正福島正則などの武断派が激しく対立するようになりました。すると徳川家康は秀吉の子である秀頼をないがしろにして、武断派と手を組んで政治の主導権をにぎりました。

 

 

 これに反発した石田三成が家康以外の五大老に「打倒家康」を呼びかけました。それに呼応した会津の上杉景勝が立ち上がりました。家康は会津征伐の軍をおこしましたが、西で三成が挙兵すると兵を大阪へ向けました。この間に家康は加藤清正や福島正則を味方につけてしまい、そのため家康を封じるために東海道に配置されていた豊臣系の大名たちが家康に味方し始めたのです。この軍隊を東軍と呼びます。

 

 

 一方、石田三成らの西軍は五大老の一人であった毛利輝元を盟主にたて、宇喜多秀家や島津義弘、大谷吉継らの大名を集めて美濃の関が原に陣をしきました。これが国内最大の合戦と言われる関が原の戦いの始まりです。この戦いは午前8時ごろ東軍の井伊直政隊が西軍の宇喜多隊に攻め込むことで開戦しました。午前中は西軍がやや優勢でしたが、正午すぎに小早川秀秋が東軍に寝返り、それに合わせて脇坂安治や朽木元綱なども東軍に寝返り、西軍の大谷隊に襲い掛かりました。そもそも西軍の中には吉川や毛利のように最後まで動かなかった部隊も多く、そもそも盟主の毛利輝元自身が大阪城から動きもしなかったのです。このため西軍の主力部隊は次々と崩れ始め、わずか一日で決着がついたのです。

 

 

 家康は戦後処理として西軍側についた大名88家の領地をすべて没収し、上杉や毛利など5家の領地を削減することで約632万石を没収しました。また、石田三成や小西行長などを処刑しました。ただし、同じく西軍として関が原に参加していた島津氏は交渉の結果、領地はそのままという扱いになりました。この毛利氏の長州藩と島津氏の薩摩藩が幕末に協力して江戸幕府を滅ぼすことになるのはやはり因縁を感じます。

 

 

 この後、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。しかしまだすべてが終わったわけでがありません。大阪城には多くの黄金とともに秀吉の子の秀頼がおり、日本の各地には豊臣派の大名が残っていたのです。そこで家康はわずか2年後に三男の秀忠に将軍を譲り自分は大御所として徳川が代々将軍として全国をおさめていくことを示したのです。

 

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