大政奉還と王政復古

1867年10月14日、将軍徳川慶喜は朝廷に大政奉還を申し出て翌日認められました。こうして1603年以来続いた江戸幕府は265年間の幕を閉じました。

 

 

 慶喜の狙いは大政奉還後も政治の主導権を握ることにありました。実際に大政奉還により朝廷や討幕派は幕府を討つ名目を失い、徳川家が新政権で大きな権力を持ち続ける可能性がありました。こうしたなかで坂本竜馬が京都の近江屋で暗殺されます。まだまだ混乱が続いていたことの証です。

 

 

 

 12月9日、討幕派は慶喜の狙い通りにさせないように動きます。討幕派が主導して薩摩、尾張、福井、土佐、広島の5つの藩の兵が京都御所の門を守るなか、天皇が王政復古の大号令を発したのです。号令の内容は慶喜の政権返上と将軍職辞任を認めること、江戸幕府を廃止すること、西洋文明を進んで取り入れる文明開化政策を採用することなどでした。

 

 

 

また、政務をまとめて天皇を補佐する総裁、事務の監督をする議定、分担して事務をおこなう参与の3職を置くことも決まりました。そして、この夜に明治天皇の前で行われた御前会議では3職と薩摩、尾張など5藩の重臣が参加し、徳川氏の処分を議論しました。

 

 

 この会議の場で山内豊信や松平慶永ら公儀政体論を支持する大名は徳川慶喜も会議に出席するべきだと主張しましたが、岩倉具視ら討幕派は慶喜がすべての官職を辞任し領地を朝廷に返還することを強く主張し、公儀政体派を圧倒しました。

 

 

 

 1868年1月、大阪城に居た徳川慶喜は新政権での徳川家の地位を固めるために旧幕府軍と会津藩、桑名藩などの兵15000人を出陣させました。これに対して薩摩藩や長州藩などの兵を主力とする約4500人は京都の南の鳥羽伏見で戦闘をしかけました。

 

 

 旧幕府軍は数は多かったものの指揮が統一されておらず武器も古いものでした。また、朝廷が薩摩や長州の軍を新政府軍として認めたため旧幕府軍は不利になっていきました。こうして戦闘が続いているなか、慶喜は一部の人間を連れて幕府海軍の軍艦で大阪湾から江戸へ逃亡しました。そうして旧幕府軍は大敗することになります。

 

 

 この鳥羽伏見の戦いから翌年5月まで約1年6ヶ月にわたり江戸を含む東日本各地で新政府軍と旧幕府軍が戦い続けることになります。1868年が十干十二支をもちいた年代表記法で戊辰にあたることから、これを戊辰戦争と呼びます。
 幕末の京都で名高かった新撰組もこの戦いの中で次第に隊員を減らしていき、この戦いの終わりとともに完全に姿を消します。 

 

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