生麦事件と尊王攘夷

 井伊直弼の死後、幕府の政治を主導したのは、老中の下総国関宿藩主久世広周と陸奥国磐城平藩主安藤信正でした。彼らは老中らが独断で行う政治から朝廷と手を結んで幕府をたてなおす「公武合体論」へと方針を変えました。

 

 

 

 1860年9月、安藤らは井伊によって政治から遠ざけられていた徳川慶喜、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平慶永、土佐藩主山内豊信らの謹慎をときます。また11月には公武合体の象徴として孝明天皇の妹の和宮が14代将軍家茂と結婚することを発表しました。和宮はすでに有栖川宮熾仁親王と婚約していたので孝明天皇もいったんは幕府の申し入れを拒否しました。しかし侍従の岩倉具視の提案で幕府が攘夷を行うことを条件に二人の結婚を認めました。

 

 

 

 しかし尊皇攘夷派はこうした動きに対し、公武合体論をきびしく批判します。尊皇攘夷派の一部の人々は力づくで幕府に攘夷を迫ろうと外国人や幕府の高官を襲い始めました。1860年12月こうした浪士たちがアメリカ公使館の通訳官でオランダ人のヒュースケンを殺害する事件を起こします。翌年5月には水戸藩浪士ら14人が江戸高輪の東禅寺にあるイギリス公使館を襲い、書記官オリファントと長崎領事モリソンを負傷させました。

 

 

 

 

 1862年には水戸藩の志士ら6名が江戸城坂下門のそばで老中の安藤信正を襲って負傷させました。これを坂下門外の変といいます。

 

 

 さらに12月には長州藩の高杉晋作らが江戸品川の御殿山にあるイギリス公使館をおそって放火しました。

 

 

 またこの年の8月には薩摩藩主島津忠義の父、久光一行が江戸から薩摩の帰り道、武蔵国生麦村で馬に乗ったイギリス人4人が行列に出会い、馬に乗ったまま向きを変えようとした一人を久光の警護の武士が無礼であると斬りつけたのです。この結果ひとりが即死、3人が負傷しました。これを生麦事件といいます。

 

 

 

 あいつぐ外国人の殺傷事件に対し、各国は幕府に志士らの取り締まりを強く求めますが、有効な手だてを打つことが出来ませんでした。いっぽう朝廷は幕府に攘夷実行を迫り、ついに将軍家茂は朝廷に攘夷を約束します。

 

 

 しかし実際に攘夷を実行したのは幕府ではなく薩摩藩と長州藩でした。長州藩は下関で関門海峡を通航するアメリカ商船を砲撃し、23日にはフランス商船を26日にはオランダ商船を砲撃しました。

 

 

 7月には生麦事件に対するつぐないを求めて鹿児島湾に進入したイギリス艦隊とこれを拒否した薩摩藩とのあいだに薩英戦争が起こりました。

 

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