安政の大獄と桜田門外の変

大老の井伊直弼は各国と修好通商条約を結ぶことに反対した一橋派や尊皇攘夷思想を持つ人々を弾圧しました。1858年9月幕府は井伊の暗殺を企てたとして、もと若狭国小浜藩士の梅田雲浜を京都でとらえます。これをはじめとして翌年4月には尊皇攘夷派の公家たちも処罰しました。

 

 

 8月には徳川斉昭、斉昭の子で水戸藩主の慶篤、徳川慶喜らを政治から引退させ10月には福井藩士の橋本佐内や儒学者の頼三樹三郎らを死罪にするなど37人を処罰しました。さらに元長州藩士の吉田松陰ら23人を死罪や流罪にします。これら一連の弾圧を安政の大獄といいます。

 

 

 吉田松陰は長州藩士の家にうまれ、親戚で山鹿流兵学者だった吉田家の養子になります。しかし西洋の軍学を身につける必要を感じて江戸に出て軍学者の佐久間象山の弟子になりました。1854年に世界情勢を学ぶために鎖国の禁令を犯して外国への密航を計画します。

 

 

 

 夜の闇にまぎれて浦賀沖に停泊していたペリーの艦隊の1隻に乗り込みましたがアメリカは幕府とのあいだで揉め事を起こすことを嫌い、松蔭の密航を断りました。

 

 

 松蔭は仕方なく岸に戻って幕府に自首します。ペリーは西洋文明を学ぼうという彼の情熱に理解を示し、幕府に対して松蔭を罰しないよう願い出たといいます。そして萩にある実家の杉家に幽閉されました。このとき松蔭は杉家の一角に松下村塾を開いてわずか3年のうちに高杉晋作、久坂玄端、山県有朋、伊藤博文、木戸孝允など幕末から明治にかけて重要な役割を果たす人材を多く育てました。

 

 

 しかしその後、日米修好通商条約に反対して過激な発言をしたため処刑されました。

 

 

 

 一方、井伊直弼は彦根藩主の子に生まれました。しかし14男だったため出世はできないと考え、「埋木舎」と名づけた建物でひたすら勉学に励む生活を送っていました。しかし兄たちが次々と亡くなったため36歳で彦根藩主の座につき、44歳のときについに幕府の大老にまで出世したのです。

 

 

 この井伊直弼の政治は尊皇攘夷派の激しい反発にあいます。そして修好通商条約を結んだ2年後の1860年、井伊は江戸城に向かう途中、桜田門のすぐ傍で水戸藩出身の牢人たち18名に暗殺されました。これを桜田門外の変といいます。

 

 

 このとき牢人側は5人が死亡し、警護の彦根藩士側は直弼のほか8名が死亡しました。このとき生き残った彦根藩士たちは藩主を守れなかった罪で処罰されました。幕府権力の中心であった大老が江戸城の門前で暗殺されるという事件で幕府の権威は大きく落ちることになりました。

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