南北朝の合一

足利義満が室町幕府第3代将軍になった1360年代後半から内覧は終わりにむかいはじめます。

 

 

大内氏や山名氏らが幕府に復帰したうえ、将軍のもとに管領がおかれて幕府の政治をまとめるようになるなど、幕府内の政治体制が整備されていきました。

 

 

 各地の武士のあいだの対立をすべておさえることはできませんでした。しかし、荘園の年貢の半分を軍隊用という名目で差し押さえることをみとめる半済令を出して、幕府は地方の武士たちを味方につけていきました。半済令はまもなく土地を半分ずつにわけあうかたちに変えられます。これは武士たちにとっては領地を広げる良い機会になりました。半済を現地で実行していたのは守護でした。

 

 

 

 幕府は力を弱めていた南朝と交渉を重ねた結果、義満は1392年に二つの朝廷の和睦を実現しました。

 

 

南朝の後亀山天皇が三種の神器を北朝の後小松天皇にわたして皇位をゆずり、今後は南朝と北朝から交互に天皇をだすことが決められました。しかし、この約束は実行されず、この後、南朝から天皇がでることはありませんでした。

 

 

60年にもわたる内乱を経験した室町幕府は、新しい対立の原因になるかもしれない二つの朝廷を認めなかったのです。

 

 

 

 このとき、最後まで室町幕府に抵抗を続けたのは九州の南朝勢力でした。九州につかわされた後醍醐天皇の皇子、懐良親王は肥後の菊池氏などの支援を受けて九州を制圧、征西将軍府という政権をたちあげて、吉野の南朝からも独立したような状態になっていました。

 

 

室町幕府が九州に送り込んだ武将も、筑後川の戦いで大敗したりするなど、すべて征西将軍府に跳ね返されていましたが、今川了俊が1372年に大宰府から征西将軍府を追い出すと形成は逆転し、以後は九州にも室町幕府の支配が及ぶようになります。

 

 

しかし、このとき室町幕府に思わぬ事態が起こりました。実は懐良親王が明の皇帝から「日本国王」に任命されようとしていたのです。

 

 

 

 1368年に元を北方に追い払って中国を統一した明は、すぐに周辺各国と外交関係を結んでいきます。

 

 

それは各国が明に従うことを表明するかわりに、明の皇帝が各国の王を認めるという関係でした。こうした外交関係を冊封関係といいます。日本でそれに応じようとしていたのが懐良親王率いる征西将軍府だったのです。

 

 

 明との外交関係は貿易による利益をもたらすので、西日本では周防国の大内氏や薩摩国の島津氏も独自に明と結びつこうという動きをみせていました。