南北朝内乱

 後醍醐天皇が吉野で朝廷をたてたため、京都(北)と吉野(南)に二つの朝廷がならびたつことになりました。両者の争いは南北朝内乱と呼ばれます。しかし、実際には室町幕府と南朝との戦いでした。

 

 

 南朝は京都をおさえる幕府を包囲しようとして奥州に北畠顕家、関東に北畠親房、北陸に新田義貞を送り込むなど地方に拠点を築こうとしました。幕府も国ごとに守護を送って、これに対抗したため内乱は日本中に広がっていきました。

 

 

 守護は国ごとに置かれた軍事指揮官です。鎌倉幕府も守護を置いていましたが、そのしごとは謀反人や殺人犯を逮捕すること、国内の御家人に京都大番役を催促することなどに限られていました。現実には国衙の仕事にかかわったり、国内の交通の要地を管理したりするなど、政治・経済的にも影響力をもつようになっていました。

 

 

 

 さらに室町幕府は、南朝との戦いにおける最前線の軍事指揮官である守護に、大きな権限を与えていきました。

 

 

とくに重要なのは軍隊用という名目で荘園の年貢の半分をさしおさえて味方の武士に与える権限と、敵から取り上げた領地を味方の武士にわけあたえる権限です。これによって守護は、国内の武士を味方につけやすくなり、積極的に軍隊を指揮することができるようになったのです。

 

 

 1339年8月に後醍醐が亡くなり、また室町幕府の守護との戦いのために各地の拠点づくりがうまくすすまず、南朝ははやくも軍事のうえでは押されてしまいます。しかし南北朝内乱はその後60年近くも続きます。

 

 

 

 その理由の一つは室町幕府内部のもめごとにあります。はじめは政治の実権をわけあっていた足利尊氏・直義兄弟が幕府を二分するような争いをはじめます。すると山名氏や仁木氏、大内氏といった有力武将が次々に反逆し始めました。

 

 

そのとき彼らは反逆を正当化するために南朝に降伏するかたちをとったのです。尊氏さえも直義を攻撃することに集中するための手段として一時期、南朝に降伏を申し入れたことがあるほどです。そのたびに南朝は力を取り戻し、いずれも短い期間ではありますが、4回も京都を占領しています。

 

 

 しかし重要なのは、全国各地の武士たちのあいだで様々な対立がひろがっていたことです。鎌倉幕府までの武士団は一族の長である惣領が一族をまとめていましたが、モンゴル襲来のころから惣領の兄弟である庶子が自立しはじめ、一族内の争いの原因になっていました。こういった動きに領地争いや、悪党たちの活動も連動していくことで内乱は長引いていったのです。