建武の新政の崩壊

 建武の新政には武士たちも不満でした。後醍醐天皇は幕府にかわって武士たちの領地を直接安堵する政策を打ち出しました。安堵とは領地がその武士のものであると保証することです。

 

 

しかし、その方針がよく変わったうえ、すべてを後醍醐天皇が認可しようとしたために次々と寄せられる安堵の要求をさばき切れず、かえって大きな混乱をもたらしました。

 

 

 多くの武士が後醍醐天皇のよびかけに応じて、鎌倉幕府打倒に立ち上がったのは事実ですが、彼らは武家政治そのものを否定しようとしたのではありません。彼らが攻撃したのは幕府を思い通りに動かしていた北条氏であり、得宗が権力を独占していた幕府の政治体制でした。

 

 

 

鎌倉や六波羅が攻め落とされたとき、数多くの幕府関係者が討ち死にしたり、自殺したりしていますが、そのほとんどは北条氏一族でした。幕府とともに滅んだ御家人はほとんどいなかったのです。

 

 

 後醍醐天皇の建武の新政に武士たちが失望しはじめたなかで、しだいに彼らの期待を集めていったのが足利尊氏でした。足利氏は鎌倉幕府の有力な御家人であり、尊氏もいったんは幕府軍の大将として京都に上っていました。ところが尊氏が途中で後醍醐天皇についたことにより形成は逆転したのです。多くの武士が尊氏のもとにあつまり、六波羅探題を攻め落とし後醍醐天皇の勝利を決めたのでした。

 

 

 

 1335年7月、北条氏の生き残りが反乱を起こして鎌倉が占領されると尊氏は反乱を鎮めるという理由で後醍醐天皇の許可なく京都を飛び出しました。

 

 

反乱そのものはすぐに収まり、後醍醐天皇は尊氏に京都に戻るよう命令しました。しかし尊氏はそれに答えませんでした。後醍醐天皇のもとに復帰する意思がないことを明らかにしたのです。ここで建武の新政は崩れ始め、時代は再び内乱へと向かっていきます。

 

 

 

 足利尊氏は後醍醐天皇によって天皇を辞めさせられた光厳上皇を担ぎ出し、後醍醐天皇と戦う旗印にしました。1336年8月、尊氏は京都を占領すると光厳の子を光明天皇として即位させました。

 

 

さらに11月には、政治の方針をしめした建武式目をさだめて、武家政権の再開を表明します。1338年8月には光明天皇から征夷大将軍に任命され、名実ともに室町幕府がはじまりました。

 

 

 後醍醐はいったん尊氏と和解し、光明天皇に三種の神器をわたします。しかし1336年12月、ひそかに京都を脱出した後醍醐は「光明天皇にわたした三種の神器は偽物で本物は自分が持ち出した」として吉野で復活を宣言します。