鎌倉幕府の滅亡と建武の新政

 1331年5月にふたたび倒幕計画が発覚すると、ついに後醍醐天皇も捕まり現在の島根県隠岐島に流されてしまいました。しかし後醍醐天皇は幕府打倒をまったくあきらめず、隠岐島から全国に鎌倉幕府を倒せと呼びかけ続けます。

 

 

 また、後醍醐天皇が流された後も後醍醐天皇の皇子護良親王や楠木正成らは畿内周辺でねばりづよく幕府に対する抵抗活動を続けました。

 

 

楠木正成は河内国出身の武士で悪党として活動していたことも知られています。千早城や赤坂城にたてこもり奇襲戦法で幕府軍を悩ませました。護良親王も畿内周辺の悪党や吉野や奈良の寺社勢力を味方につけて、ねばりづよく戦いを続けました。

 

 

 

 こうした抵抗に幕府軍に手間取っているうちに各地で後醍醐天皇のよびかけに応じる武士があらわれ、それぞれ博多の鎮西探題やなどの幕府の要所に攻撃を始めました。新田義貞は鎌倉を直接攻撃し、足利尊氏は京都の六波羅探題を攻撃しました。そして1333年5月ついに鎌倉幕府は滅びました。

 

 

 1333年6月、隠岐から京都に戻った後醍醐は天皇に復帰します。後醍醐が隠岐に流されたあとに即位していた持明院統の光厳天皇は辞めさせられ、その即位じたいが取り消されました。

 

 

 政界に復帰した後醍醐天皇は鎌倉幕府にかわって天皇中心の新政治を始めました。この新政治の特徴をよく示しているのが雑訴決断所という裁判機関です。ここには公家とともに鎌倉幕府出身者や鎌倉幕府打倒に功績のあった武士なども加わって新政治に寄せられたさまざまな問題の解決にあたりました。

 

 

 

 後醍醐天皇が目指したのは公家政治の単純な復活ではありません。幕府は倒しましたが、もはや武士を無視して政治をすすめることはできませんでした。そこで後醍醐天皇は武家も公家も天皇が直接支配する新政治を目指したのです。

 

 

雑訴決断所の人員構成はそうした後醍醐天皇の考えにもっともよくあうものでした。政界に復帰した翌年、年号が「建武」と改められたのにちなんで後醍醐天皇の政治は「建武の新政」と呼ばれています。

 

 

 ただし後醍醐天皇の考えはそのころの公家たちの考え方とまったく同じではありませんでした。後醍醐天皇は「自分が行う政治は将来の先例となるのだ」と政治改革をすすめていきます。

 

 

しかし先例に従うことが正しくて、新しいことを避けていた公家たちは後醍醐天皇の激しすぎる政治改革にはついていけなかったのです。1335年には上級貴族の西園寺公宗が建武の新政を倒そうとしていることが発覚します。