鎌倉時代の改革と徳政令と悪党

1284年に得宗北条時宗が34歳で急死し、あとにはまだ14歳の新得宗北条貞時が残されました。

 

 

このとき幕府では積極的な政治改革が試みられます。時宗の妻の兄であり、貞時の叔父だった安達泰盛がその中心になり、九州の非御家人を御家人にして寺社からの恩賞の要求にもこたえるなど、モンゴル襲来以後の幕府が抱えていた問題の解決に取り込もうとしました。

 

 

 しかし安達泰盛は幕府内の争いに敗れて滅び、改革路線もわずか1年ほどで挫折してしまいました。安達泰盛の政治改革には得宗に権力が集中している幕府のあり方を大きくつくりかえる可能性がありましたが、その機会は失われてしまったのです。

 

 

 

 13世紀前半から比叡山の僧や借上といった金融業者たちが御家人の領地の代官をつとめていることが問題になってきていました。じつは御家人たちは金融業者から借金を重ねており、その見返りとして彼らを自分の領地の代官に任命していたのです。結局借金を返せずに領地を手放してしまう御家人も多くいました。

 

 

 領地は御家人が幕府に奉公するときの経済基盤だったので、幕府としてはこの事態を見逃すわけにはいきませんでした。金融業者を代官に任命したり、領地を質に入れたり売ったりすることを御家人にしばしば禁止しましたが、効果はあがりませんでした。

 

 

ついに鎌倉幕府は御家人が手放した領地の返還を命令する徳政令を出して御家人のもとから領地が失われていく状況を強制的に食い止めようとします。

 

 

 

 なかでも1297年に発令された徳政令はもっとも全国に広がりました。しかし御家人の生活はすでに金融業者なしでは成立しなくなっており、徳政令によってその流れを断ち切ることはできませんでした。それどころか別の流れが発生してきます。

 

 

 幕府が考えていなかった一般の人も、この徳政令によって手放した土地を取り戻し始めたのです。御家人だけではなく、土地を手放す人は他にも多く存在していたのです。

 

 

 また、幕府が抑えることができなかったものがでてきます。これが「悪党」です。強盗・山賊・海賊などが社会問題になりはじめた13世紀なかばごろからのことです。

 

 

 

 1319年12月、備後国の守護代が数百人の悪党を引き連れて尾道に乱入し、放火・略奪を行いました。尾道は地方経済の拠点になっていた町です。こうした富の奪い合いが鎌倉時代の後半には日本各地で行われるようになってきます。

 

 

またこうした悪党は土豪・商人・御家人・荘官や地頭など様々でした。こうして鎌倉幕府にあらたな問題がでてきたのです。