北条氏に集中する権力

モンゴル襲来の影響は、鎌倉幕府にも及んでいきました。まず、モンゴルと戦った御家人たちには恩賞を与えなくてはいけませんでした。

 

 

しかし襲来した敵を追い払っただけで新しい土地を獲得したわけではなかったので、恩賞の土地の確保に苦労しました。

 

 

 また、弘安の役のあともモンゴル再襲来の恐れがあり、警戒を緩めることができませんでした。しかし御家人だけでは人数が足りなかったため、幕府は「非御家人」と呼ばれる御家人以外の武士も動員して警戒を続けていました。

 

 

じつは文永の役のときに幕府は、これら非御家人を戦場に動員する許可を朝廷から得ていたのです。しかし将軍とは直接主従関係にない非御家人たちを動員し続けることは、それまで経験のないことでした。

 

 

非御家人をどのようにあつかうか対策が幕府にもとめられることになったのです。

 

 

 

 寺院や神社と幕府とのあいだにも、モンゴル襲来以前にはなかった関係がうまれました。それまでは「関東祈祷寺」と呼ばれる特定の寺院に幕府が祈祷を依頼し土地を寄進したり寺社の領地を保護したりする程度でした。

 

 

ところが全国のおもな寺社に幕府からモンゴル退散の祈祷が命令されたのをきっかけに、それらの寺社からよせられる恩賞の要求にもこたえる必要がでてきたのです。

 

 

 モンゴル襲来の結果、各方面から幕府にもとめられる役割が増大していたわけです。それに対して鎌倉幕府内部はどのような状況になっていたのでしょうか。

 

 

 

 13世紀なかば、執権北条時頼のころから、幕府内では得宗とよばれる北条氏惣領の勢力が強まり幕府の実権をにぎるようになりました。惣領とは一族をまとめる中心人物です。

 

  1246年に、時頼と対立した前将軍九条頼経が京都に追放されますが、それ以来将軍は力をもたない名前だけの存在にされてしまいます。

 

 

幕府政治の中心だった評定会議も名ばかりだけのものとなり、重要な政策は得宗の屋敷で得宗とその周辺の人間だけによる「寄合」という秘密会議で決定されるようになりました。

 

 

 

 さらにモンゴル襲来は得宗へと権力を集中させる結果になりました。過去に例のない危機に対処するため得宗を中心に幕府内の団結が強められた結果、北条氏一門でも得宗にはむかうような動きを見せるものは処罰されていきました。

 

 

また、モンゴルの再襲来に備えた警備の強化を理由に守護が大量に交替され、多くの国の守護に得宗と北条氏一門が任命されました。そうして権力が得宗に集中していったのです。