新しい鎌倉仏教者たち、一山一寧

 来日した僧には一山一寧がいます。1299年にフビライ=ハンの孫であるモンゴル皇帝テムルの使者として来日しました。

 

 

そのため、はじめは伊豆修禅寺に閉じ込められましたが、執権北条貞時から信仰をうけ、建長寺と円覚寺の住持をまかされました。

 

 

さらに後宇多天皇の招きもうけて京都に上り、南禅寺の住持をつとめました。こうした中国禅僧たちの活動によって、禅宗は日本に根付いていきました。彼らは保護した北条氏の役割も重要でした。

 

 

 

 貿易や禅僧の行き来のようすからはモンゴル襲来の影響はほとんどなかったようにも見えますが、実際はそのころの社会に大きな影響を残していました。

 

 

特に各地の寺院や神社ではモンゴルの退散を祈る祈祷がさかんにおこなわれ、文永の役や弘安の役の勝利が「神風」によるものと宣伝されるなど宗教界では大きな動きがありました。

 

 

 

 なかでもモンゴル襲来にもっとも敏感に反応したのが日蓮です。はじめ天台宗を学んだ日蓮は法華経への信仰をつよく主張し、「立正安国論」を書いて幕府に提出しました。

 

 

それは外国の侵略と国内の内乱を予言して幕府に法華経への絶対的な信仰をもとめるものでした。その一方で、念仏をはじめとして他の教えを厳しく非難したため、はげしい反発をまねき、伊豆や佐渡に流されてしまいます。

 

 

しかし日蓮はめげることはありませんでした。モンゴル襲来も日蓮にとっては「立正安国論」での予言があたったことになり、法華経信仰をますます深めていきました。鎌倉の街角に出て、法華経をたたえる「南無妙法蓮華経」という題目を唱えれば救われると説く日蓮の教えはしっかりと民衆の心をとらえていきました。

 

 

 

 民衆の世界にとびこんでいったのは、日蓮ばかりではありません。念仏を信仰する仏教者も積極的に民衆に教えを広めていきました。

 

 

特に日蓮と同じ世代の一遍は各地を旅して人々に念仏をすすめてまわりました。鉦や太鼓にあわせて集団で踊りながら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える踊り念仏をはじめると一遍は行く先々で人々から熱狂的に迎えられました。

 

 

一遍とその信者たちは時衆と呼ばれ、各地を旅して踊り念仏を行うすがたは「一遍聖絵」という絵巻物に描かれています。

 

 

 僧としての生活規則を定めた戒律を重視する律僧たちは、日蓮や一遍らの布教活動には批判的でした。律僧は彼らなりの方法で民衆の救いを目指しました。奈良の西大寺を拠点に律僧の教団をつくった叡尊は社会のなかで弱い立場の人々を救う活動を行ったりしました。