日元貿易と禅宗のひろまり

 フビライ=ハンの国書以来、日本とモンゴルとのあいだには緊張関係がつづきましたが貿易は盛んにおこなわれていました。

 

 

弘安の役のあと、しばらくは商船の行き来もとだえていましたが、1290年代からふたたび活発になります。なお、モンゴルは1271年に国の名前を「元」とあらためています。

 

 

元は周辺諸国と積極的に貿易を行う政策をとっており、日本も例外ではなかったのです。

 

 

 

 元からは大量の銅銭や陶磁器、書籍や薬など「唐物」とよばれる様々な品物がもたらされ、貿易の利益はたいへん大きなものでした。そのようすは1976年に韓国の新安沖の海底で発見された「新安沈船」とよばれる沈没船からうかがうことができます

 

 

。その船の中からは陶磁器18600点、銅銭800万枚、高級な材木1000本が積み込まれていました。こういった陶磁器などは公家や武士たちがあこがれる高級輸入品でした。他の積み荷の状況から、この船は1326年6月に中国の寧波を出港した貿易船で博多に向かう途中で強風で流され沈没したことがわかっています。

 

 

 新安沈船には京都の東福寺再建費用にするための貿易品も積み込まれていました。日元間の貿易船は多くの人々から品物を預かり、その貿易によって得た利益を品物を預けた人々に配分していました。実は元の再襲来をおそれて警戒態勢をゆるめなかった鎌倉幕府も、鎌倉の大仏や建長寺など寺院の造営費用を得るため、日元貿易に品物を預けていました。幕府から品物を預かった貿易船は「関東大仏造営料唐船」などとよばれ、御家人たちが警護するなど幕府の保護を受けていました。

 

 

 

 こうした貿易船の盛んなやりとりに便乗して多くの人々が日本と中国の間を行き来しました。とくに13世紀後半になると中国の禅僧が数多く日本にやってきました。

 

 

 そのはじめは蘭渓道隆です。日本ではまだ禅宗が広まっていないことを耳にして1246年に来日した蘭渓は鎌倉幕府の執権北条時頼からあつく信仰され、建長寺の初代住持を任されました。蘭渓のもとで数多くの日本人僧が指導を受け、さらに本場の禅をもとめて中国へ渡っていきました。

 

 

 1278年に蘭渓が亡くなったあと、執権北条時宗の招きを受けて来日したのが無学祖元です。無学は建長寺の住持をつとめるかたわら、北条時宗が建てた円覚寺の最初の住持である開山にむかえられました。無学のもとにも多くの僧があつまり、鎌倉の建長寺や円覚寺は日本における禅宗の中心として活気にあふれていました。