もう一つのモンゴル襲来

モンゴル帝国は文永の役・江南の役の2度にわたって九州を襲いましたが広く日本列島全体を見渡すとモンゴル帝国の襲来を受けた地域がもう1カ所あります。それは北海道の北、サハリン(樺太)です。モンゴル軍はサハリンにも2度攻めてきました。

 

 

 しかしモンゴル側の記録によると「北のモンゴル襲来」は九州の場合とは少し様子が異なるようです。そのころサハリンの「骨嵬」という人々が海をわたってアムール川流域に進出し、そこに住む「吉里迷」を支配下においていたモンゴル帝国が「骨嵬」を攻めたというのです。むしろ「骨嵬」の活発な活動がモンゴル帝国の襲来を招いたようです。

 

 

 そもそも「骨嵬」とは、どのような人々なのでしょうか。また、そのころの北海道とその周辺の蝦夷とよばれていた地域はどのような状況だったのでしょうか?

 

 

 

 北海道に稲作は広まりませんでした。もともと豊かな森林資源やサケ・マスなどの水産資源に恵まれており、人々は狩猟や漁労を基本とする生活をしていました。この地では6,7世紀ごろから新しい文化がうまれました。

 

 

 一つはサハリンから北海道北部・東部にかけてひろがったオホーツク文化です。アザラシやトドなどの狩猟や漁労を中心とした生活を営みながら海を隔てた北方のアムール川流域の人々とも交流していました。

 

 

 もう一つは擦文文化です。オホーツク海沿岸以外の北海道全域に広がり、東北地方の北部にもその影響は及んでいました。擦文文化という呼び方のもとになったのは、表面をヘラなどでこすって文様をつけた擦文土器ですが、これは本州の土師器の影響を受けて作られたといわれています。ほかにも鉄鍋などの鉄製品や雑穀の栽培がおこなわれるなど、本州の文化に深くかかわりながら形作られていきました。

 

 

 

 擦文文化との交流により、本州にはアザラシの皮やワシの羽、昆布など北方の産物がもたらされました。これらは都の公家社会では高級品として喜ばれました。また、アザラシの皮やワシの羽は武具の材料にもなったので武家社会でも需要がありました。そのため擦文文化との交易は活発におこなわれたのです。

 

 

 こうした交易が蝦夷周辺に大きな変化を与えました。こういったものが本州で必要になってくると擦文文化はオホーツク文化へと侵入していき、北海道全域に形作られていくのがアイヌ文化です。

 

 

 アムール川流域の「吉里迷」と紛争を起こした「骨嵬」という人々の正体は勢力を広げていたアイヌ文化の人々だったのです。