蒙古襲来絵巻

 弘安の役はモンゴル軍の計画どおりにはすすみませんでした。東路軍と江南軍の合流計画がくるってしまったうえ、博多湾岸に築かれた石垣にはばまれて、今回はかんたんに上陸することができなかったのです。

 

 

もちろん御家人たちもよく戦いました。さらにようやく東路軍・江南軍が合流し、あらためて博多を攻撃しようと肥前国鷹島の海上に全軍があつまっていたところに台風の直撃が襲い大きな被害をうけてしまったのです。

 

 

 その後もフビライは日本攻略をあきらめることはありませんでしたし、幕府も警戒をゆるめることはありませんでした。しかしモンゴル国内の反乱事件などの影響もあり3度目の日本遠征はおこなわれませんでした。その後の大陸と日本との関係は再び経済・文化交流が中心になっていきます。

 

 

 

 「蒙古襲来絵巻」は実際に文永の役・弘安の役を戦った竹崎季長という肥後国の武士が自分の活躍を描かせた絵巻物です。モンゴル軍との戦いのようすを伝えるものとして非常に価値のあるものです。この蒙古襲来絵巻を見るとモンゴル軍の戦い方がわかります。

 

 

 御家人たちはモンゴル軍の戦法や戦術に悩まされていたようです。弓矢をはじめとして、一騎打ちに持ちこもうとする御家人たちに対して、モンゴル軍は統率された集団戦法で応じました。

 

 

「てつはう」という御家人たちが見たことのない火薬兵器を使ったり、毒矢を使ったりもしたようです。季長は馬を射られて身動きが取れなくなったところをモンゴル兵に取り囲まれそうになり「味方が救援にきてくれなかったら討ち死にしているところだった」と文永の役の戦いをふりかえっています。

 

 

 

 しかし季長はひるみませんでした。なんとか大きな手柄をたてようとひたすら突撃していきます。弘安の役でも自分が用意した船が間に合わないとみると無理やり他人の船に乗り込んで敵船を追いかけていきました。季長のような御家人たちの活躍がモンゴル襲来をはねかえす力になったことは間違いありません。

 

 

 ただし季長には手柄をたてなければならない事情がありました。季長は先祖からの領地を失っており、この戦争で手柄をたてて恩賞として新たな領地をもらおうと必死になっていたのです。

 

 

それゆえモンゴル軍に突撃をしたのちは、自分の手柄を幕府に報告することも忘れていませんでした。なかなか恩賞がでないと九州から鎌倉まで出かけていき、幕府の重臣安達泰盛に直接訴え出ます。ここまでして望み通り恩賞を手に入れることができたのです。