文永の役・弘安の役

フビライ=ハンの国書が来た時点で、朝廷や幕府はモンゴルが必ず攻めてくると考えていました。各地の寺社にモンゴル退散の祈祷を命令するとともに襲来が予想される九州の御家人や九州に領地をもつ御家人に防衛を命令しました。

 

 

 三別抄の反乱がしずめられた翌年、フビライはついに日本攻撃を命令します。こうして文永の役がはじまりました。1274年10月はじめに朝鮮半島南岸の合浦を出発したモンゴル・高麗連合軍約3万は対馬・壱岐をまたたくまに制圧し、20日には博多に上陸をはじめます。

 

待ち構えていた御家人たちとの戦闘がくりひろげられます。戦いはモンゴル側が有利にすすみましたが、その夜のうちにモンゴル軍は引き上げていきました。

 

 

 

 神社などは「神風が吹いたおかげでモンゴル軍は逃げ帰ったのだ」と神仏や祈祷の威力を宣伝しましたが、本当の理由はわかりません。モンゴル・高麗連合軍のなかで意見が対立したという説や、今回は日本を脅すためだけであったという説もあります。

 

 

 フビライはすぐに再遠征の準備を命令するとともにまた使者を日本に送ってモンゴルにしたがうようもとめました。この一行は1275年4月に長門国に到着しますが、幕府は彼らを鎌倉に連行し、処刑してしまいました。モンゴルとの対決姿勢をあきらかにしたのです。

 

 

さらにモンゴルの再襲来に備え、文永の役の戦場にもなった博多沿岸を防御するため、石垣の建設も命令しました。このとき作られた石垣は元寇防塁と呼ばれ、その一部が現在も博多に残っています。

 

 

 

 幕府が準備したのは防御施設ばかりではありません。幕府は高麗に先制攻撃をしかける積極的な作戦を計画し、必要な兵員と船の確保を御家人たちに命令していました。

 

 

のちの弘安の役の直後にも高麗遠征計画が立てられています。どちらも計画だけで実行に移されることはありませんでしたが、モンゴル襲来は日本にとって受け身の戦いばかりではなかったことには注意が必要です。

 

 

 

 モンゴルの再襲来、つまり弘安の役は1281年夏に実行されました。文永の役のあと1276年にモンゴルはついに宋も攻め滅ぼしており、弘安の役には宋の軍隊も投入されていました。

 

 

合計約15万人の大軍が、東路軍と江南軍の二手にわけて送り込まれるという文永の役を上回る大規模な遠征でした。さらに江南軍の船には遠征軍が生活するための農具や家畜も積み込まれていました。日本の一部を占領して長期戦に持ち込む計画までたてた本格的な侵攻だったのです。