平氏の滅亡と義経

 後白河上皇は平氏に「和平交渉を行うから休戦する」と連絡して油断させ、そのすきに義経らに攻撃させました。この戦いは「一ノ谷の合戦」と呼ばれています。平氏の本隊は讃岐国の屋島へ逃走します。この戦いに勝ったことで源氏が優勢に立ちました。さらに義経は逃げた平氏を追い詰め、長門国の壇ノ浦で海上戦を行い、平氏を滅ぼします。

 

 

 この戦いで平氏の指揮官宗盛は生け捕りになり、清盛の妻の時子と安徳天皇は海に飛び込んで亡くなり、三種の神器のうちの剣が海中に沈んで失われました。安徳天皇と三種の神器を平氏から取り戻そうとしていた頼朝からすると不満の残る結果になったのです。

 

 

 壇ノ浦の戦いの後、平宗盛らを鎌倉まで護送した源義経は兄の源頼朝から冷たいあしらいを受け京都へ戻ります。義経は平氏を滅ぼしたという功績を認められず、頼朝から暗殺指令が出たという噂を聞き、同じく頼朝に不満を持つ源行家とともに反乱を決意しました。義経と行家は後白河上皇にせまって「頼朝を追討せよ」との命令を出させます。しかし京都周辺の武士はまったく味方には加わりませんでした。義経らは九州へ移動して再起をめざすことにしますが京都を出て摂津国から船出した義経たちは暴風雨のために遭難し、ちりぢりになって逃走することになりました。

 

 

 いっぽう頼朝は義経らの要求にまけて頼朝追討の命令をあたえた後白河の責任を追及するため北条時政を軍勢とともに京都へ上らせました。時政は頼朝の代理として朝廷と交渉し、「文治勅許」を出させました。「頼朝が守護や地頭を任命することを認める」というものです。守護とは国ごとの軍事司令官のことで地頭は荘園や公領の管理人のことです。しかし実際にはそれ以前から頼朝は独自に守護や地頭を任命していたので文治勅許は頼朝の権限を朝廷が正式に認める意味をもつものでした。

 

 

 1186年になって義経と別れて逃亡していた行家が和泉国で発見されて討ち取られます。義経は逃走を続け、奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を隠します。奥州藤原氏は奥羽地方を支配する軍事指導者で、頼朝が挙兵して以来ずっと中立を守ってきていました。頼朝によっては敵か味方かがはっきりしない勢力でした。

 

 

 1188年、義経が平泉にいることが確認されます。そこで頼朝は朝廷を通じて秀衡のあとをついだ泰衡に義経を差し出すように要求しますが、泰衡は従いません。翌年、頼朝は義経と泰衡を追討する命令を出すように朝廷に圧力をかけはじめます。