源義仲の盛衰

 平氏が京都を出て行くと入れ替わりに源義仲や源行家、安田義定をはじめとする各地の源氏の軍勢が入ってきました。後白河上皇を中心とする朝廷では義仲や行家に官職を与えるとともに平氏に連れ出された安徳天皇のかわりとして安徳の弟の後鳥羽天皇を即位させました。このとき義仲は以仁王の子を天皇にするように主張し、後白河や公卿たちの反感を買います。また、京に入った軍勢が土地や財産を奪い、好き放題にするのを止めようとしない義仲への不満が高まっていきます。

 

 

 平氏を討つために義仲が西国に出陣したあいだに後白河は動きます。まず頼朝が平治の乱で流罪になったときに取り上げられた官職を元通りあたえるということです。これによって頼朝の流罪が許され、頼朝の行動の正当性が認められたことになります。そしてもうひとつが「寿永2年10月宣旨」という命令です。その内容は「東海道と東山道の諸国の荘園・公領は本来の持ち主の権利を認めるとともに、その年貢は頼朝が責任を持って納める」というものです。これは朝廷が東海道・東山道の土地の支配を頼朝にまかせ、頼朝がそれまでに築いてきた東国の軍事政権の存在を認めたことになります。

 

 

 頼朝の支配が認められた東山道のなかには義仲の支配地だった信濃国や上野国が含まれていました。頼朝は「寿永2年10月宣旨に従って年貢を京に納める」という理由をつけて弟の源義経らの軍勢を京都に送り出します。この状況を見て義仲は後白河の命令を無視して急いで京に戻り、頼朝に対抗する用意をします。これに対し後白河は義仲に平氏を討つように命令を出し、義仲を追い払おうとしました。

 

 

 これに怒った義仲は、ついに後白河の御所である法住寺殿を攻撃し、後白河を閉じ込め、摂政の近衛基通を辞めさせて、義仲に協力する藤原師家に代えました。この政変によって朝廷を支配下においた義仲は「頼朝を追討するように」という命令を朝廷から出させました。しかし源行家をはじめ、京都に入っていた武士たちのほとんどが義仲の強引なやりかたを嫌っていたため義仲のもとから離れていきました。そうしたなか、京都に突入した義経の軍に破れ、義仲は近江国の粟津で討ち死にしました。

 

 

 源義仲が滅ぶと、すぐに近衛基通が摂政にもどされます。そして源頼朝の二人の弟、義経と範頼が平氏追討のために送り出されました。頼朝と義仲が争っている間に平氏は勢力を盛り返し、摂津国の福原付近に軍勢を集めていたのです。