源頼朝の進撃 

 源頼朝がはじめに攻撃した相手は山木兼隆でした。兼隆を討ち取った頼朝は伊豆国や相模国の武士を率いて箱根石橋山で平氏方の軍と戦いますが敗れて房総半島に逃れます。しかし頼朝は安房、上総、下総、武蔵、相模など南関東の有力武士を配下にすることに成功し、勢力を取り戻します。そして父である義朝の館があった鎌倉に入って本拠にしました。

 

 

 頼朝が挙兵した直後、各地の源氏も次々にたちあがりました。信濃国では頼朝のいとこにあたる源義仲が、甲斐国では源氏の一族で甲斐源氏とよばれる武田信義や安田義定が、それぞれ平氏打倒の戦いをはじめました。そして各地を支配していた軍事指導者たちもそれぞれの動きをしめします。肥後国の菊池氏が平氏に背いたのに対して越後の城氏や常陸の佐竹氏は平氏につき、奥州藤原氏はどちらにもつきませんでした。

 

 

 1180年、平氏は東国の反乱をしずめるために平清盛の孫である平惟盛を大将軍とする追討軍を派遣します。甲斐源氏を主力とする反乱軍は駿河国の富士川で追討軍を待ち受けて撃退しました。源頼朝は、この富士川の戦いに勝利をおさめると相模国府で味方した武士たちに功績に応じた褒美を与えました。その内容は平氏から奪った土地を与えたり、持っていた土地の権利を保証したりするものでした。頼朝は1180年の末までは鎌倉を拠点とする武士政権の形作りをおこないます。

 

 

 反乱の勢いが激しいことを知った清盛は福原から京へ都を戻します。そして平氏の軍は近江国で源氏を打ち破り、園城寺を焼き払い、東大寺や興福寺を焼き討ちにしました。東大寺の大仏もこのときに焼け落ちました。

 

 

 1181年になると高倉上皇が亡くなり、清盛は仕方なく後白河上皇の院政を復活させました。そのかわりに清盛は子の宗盛を近畿とその周辺の国々を支配する広域司令官である「惣官」の地位につかせました。そして平氏が宗盛を中心に攻勢に出ようとしたときに清盛が急死します。後継者の宗盛は清盛ほどの指導力がなかったため政権を後白河に返上しました。ここで平氏政権は終わりをつげたのです。

 

 

1183年、平氏は北陸へ大軍を送りますが越中国と加賀国の境である倶利伽羅峠で源義仲に破れ、京都に引き返します。源義仲や源行家の軍が京都にせまるなか、宗盛は包囲される前に九州に逃れて軍勢を立て直すことを決定しました。平氏一族は安徳天皇と三種の神器を持って京都を出ました。これを「平氏の都落ち」といいます。このとき後白河上皇を連れ出すことに失敗したことが平氏の運命をさらに悪くしていきます