以仁王の乱と福原遷都

 1180年には高倉天皇が子の安徳天皇に位を譲り院政をはじめました。安徳の母は平清盛の娘の徳子でした。清盛が望んでいたとおりの政治のかたちになったのです。しかし高倉院政の始まりは、ある人物に重大な決意をさせることになります。その人物は後白河上皇の子の以仁王です。

 

 

 以仁王は以前から自分の弟の高倉天皇が平氏の力によって天皇の位についたことを不満に思っていました。つづいて安徳が天皇になったことで以仁王が天皇になる可能性がなくなりました。そのため以仁王は摂津国を本拠とする源頼政や延暦寺、興福寺などの支援をうけて平氏を討つための戦を計画します。そして「天皇の位を奪い、仏法を破滅させる清盛を討伐せよ」という命令を各地の武士に送りました。

 

 

 延暦寺などの大寺院が平氏政権に反発したのは清盛がこれまで大寺社を保護してきた後白河上皇の院政を停止し、京都や奈良の大寺社よりも平氏一族の氏神を祭る安芸国の厳島神社を重視していたからです。

 

 

 ところが以仁王の計画はすぐに平氏側に知られてしまい以仁王と源頼政は園城寺に逃れます。園城寺では以仁王を助けることに反対するものも居たため二人は興福寺に逃れようとします。しかし途中の宇治で平氏の軍と合戦になり共に討ち死にしてしまいました。

 

 

 以仁王の乱によって、京都や奈良の大寺社が平氏政権を嫌っていることがわかったため、乱の直後に清盛は自分の別荘がある福原への遷都をおこないました。後白河上皇と高倉上皇、安徳天皇を京都から福原へ移したのです。突然の遷都だったため清盛や一族の別荘がとりあえずの内裏や上皇の御所にあてられ、大急ぎで内裏などの建設がおこなわれました。

 

 

 以仁王の乱がしずめられ福原で新しい都作りが動き始めた1180年8月、東の伊豆国で新しい反平氏の動きがありました。平治の乱で敗れた源義朝の子で流罪になっていた源頼朝が兵を挙げたのです。伊豆国で20年の罪人生活を過ごした頼朝は34歳になっていました。頼朝は罪人として伊豆の有力武士の北条時政の監視を受けながらも伊豆国や相模国の武士たちと交流をしていました。

 

 

 以仁王の乱によって各地の源氏に対する平氏の警戒が強まり、頼朝の身にも危険が迫ります。また、伊豆国は平氏の知行国でもあり受領の代官である山木兼隆などが力を強め、それまで国衙をつとめていた北条氏などの武士と対立するようになっていきました。このとき頼朝は以仁王の命令に従って平氏を討とう、とよびかけ兵を挙げたのです。