平清盛の政変

1179年、政治の主導権をめぐって対立を深めていた後白河上皇と平清盛はついに激しく衝突します。きっかけは摂関家の近衛基実の妻になっていた清盛の娘の盛子が亡くなったことでした。盛子は基実が死んだ後、多くの摂関家の土地を相続していました。基実の子である近衛基通も清盛の娘である完子を妻にしていて、将来は基通が摂関家の正統な跡継ぎになり土地を受け継ぐはずでした。ところが後白河上皇は盛子の死後に摂関家の土地をすべて没収してしまいます。さらに平氏の力が強くなることを警戒していた基実の弟の藤原基房に摂関家の土地を与えて基房の系統を摂関家の中心にしようとしました。

 

 

 続いて清盛の子である重盛が亡くなります。重盛は清盛の跡継ぎとして朝廷の軍事指揮官の役をつとめるとともに後白河上皇の院政を支えていました。清盛が出家して福原にいることが多くなったため京都では重盛が平氏一門を代表していたのです。後白河と清盛の調整役の役割をしていた重盛が亡くなったことで後白河は遠慮なく清盛を攻撃するようになりました。重盛が持っていた知行国のうち越前を重盛の一族ではなく院の近臣である藤原光能にあたえたのです。

 

 

 度重なる後白河の攻撃に耐えかねた清盛は数千人の兵を率いて福原から京へ攻め上り、軍事政変によって一気に政治の主導権を奪いました。清盛は真っ先に関白の藤原基房を捕らえて流罪にし、かわりに近衛基通を関白にしました。後白河は政治に関わらないことを約束させられ京都郊外の鳥羽殿に閉じ込められました。また、院の近臣や反平氏の貴族39名を解任しました。

 

 

 こののち、いずれも清盛の娘婿である高倉天皇と近衛基通が表向きの中心となって政治を運営していきますが、実際には清盛の考えに従っていたので「平氏政権」と呼ぶことができます。武士の政権というと鎌倉幕府からと考えてしまいがちですが平氏政権はそれに先駆けるものです。本格的な武士政権は鎌倉以降になりますが、鎌倉幕府の仕組みの多くは平氏政権から受け継いでいるのです。

 

 

 平氏政権の成立とともに平氏は後白河上皇やその近臣から多くの知行国を奪いました。そしてついに全国のほぼ半数が平氏一族とその関係者の知行国になりました。それらの国々では平氏関係者が受領に任命され、現地では平氏の家来が大きな力を持ちました。そのため平氏とつながりがなく、元から持っていた権利を奪われた現地の武士のなかには平氏に強い反感を持つものが増えていきました。