鎌倉時代の荘園・公領での武士の地位

 戦いを職業とする武士は平清盛のような人物を除いて、普通は貴族より身分が低かったため、自分が荘園の持ち主になったり、受領に任命されて公領を支配したりすることはありませんでした。しかし、各地に住み着いた武士は土地を私有して地域の支配者になっていきました。

 

 

 公領では、年貢の取立てや犯罪の取締りをおこなうために受領は武士を郡や郷など地区の責任者である郡司や郷司に任命しました。武士はその地位を利用して、その地区に住む人々に対する支配を強め自分の所領とするようになりました。また、土地を開発したり荒れた公領を再開発して私有地にして土地や人々を支配していきました。このように開発をおこなった人々は3つの種類に分けられます。

 

 

 第1は役人という立場を利用して人々を動かすことができた朝廷の下級貴族や国衙の職員です。第2は山や海を切り開く土木技術の知識や経験を持ち、信仰によって人々を導いた僧侶や神官です。そして第3が武力によって人々を支配した武士でした。

 

 

 開発した田畑は「別名」や「別府」と呼ばれ、特別に減税されました。しかしあくまでも公領の一部として受領に管理されたので受領の交代によって減税が認められないこともありました。そこで開発者は、より安定した権利をもとめて貴族などに土地を寄付して荘園の一部というかたちにしてもらい、現地を支配する立場を得たのです。そういった荘園の設立や経営では武力が必要になったため武士が力を持っていきました。土地の境界のことを、そのころの言葉で地頭と呼びました。そこから荘園の管理や荘園内の犯罪の取り締まりを担当する役職を地頭と呼ぶようになりました。のちに鎌倉幕府によって各地に任命された「地頭」もこの荘園内の地頭をもとにしたものです。

 

 

 武士が地域の支配者という性格をもつようになると、荘園や公領のなかにおかれた武士の館が地域の人や品物、情報が集まるようになりました。では武士の館とはどのようなものだったのでしょうか。

 

 

 周りを土塁と深い堀で囲まれた館が武士の館だと考えられていましたが、最近の研究ではこのような形が一般的になるのは鎌倉時代の終わりから室町時代にかけてであることがわかってきました。

 

 

 むしろ平安時代から鎌倉時代初期ごろの武士の館は自然の地形にあわせた様々な形の敷地に建てられ、溝や簡単な柵、板塀などでまわりをかこんでいました。そして交通の便利なところに建てられていたのです。