清盛と日宋貿易 

 平氏が思い通りに朝廷を動かすようになったことに公卿の藤原成親や西光ら院の近臣に不満が高まっていきました。1177年には院の近臣たちが近臣の一人で僧侶である俊寛の鹿ケ谷の別荘にあつまり平氏打倒の政変を計画したとの密告がありました。これに激怒した清盛は関係者を捕らえます。藤原成親や西光は処刑され、俊寛は流罪になりました。こうして平氏の世は続きます。

 

 

 日本で武士が台頭する最初のきっかけになった天慶の乱のころの960年に中国でも軍人の趙匡胤が宋を建国します。唐が滅んでから中国は多くの国に分裂していましたが、宋によって再び統一されたのです。宋は軍人が作った王朝ですが、日本の幕府と異なり成立した後は官僚を中心とする国のしくみにかわっていきました。また宋は対外貿易を積極的にすすめました。

 

 

 宋の窓口は明州という港湾都市で、ここには日本や高麗との貿易船を管理する「市舶司」という役所が置かれました。明州を出発した船は東シナ海を横断して博多に入港します。貿易を主導するのは宋の商人でしたが、日本人も船員として船に乗っていました。

 

 

 朝廷は大宰府の役人をつうじて博多に入港した貿易船を管理しました。貿易商人は大宰府の管理下で博多の迎賓館で取引をおこないました。11世紀後半からはもっと東側の博多の市街地に移っていきました。やがて博多に多くの宋商人が住むようになり、「唐坊」とよばれる中国人街もあらわれました。博多の発掘現場からはこのころの中国製陶磁器が大量に発見されています。これらは日本と宋の活発な交流をしめしています。

 

 

 陶磁器のほか、宋から輸入されたものは綾や錦などの高級織物や書籍・経典・薬・銅銭などでした。特に銅銭は中国から海外への持ち出しが禁止されていたにも関わらず日本へ大量に輸出されました。いっぽう日本からは砂金・真珠・水銀・硫黄・木材などでした。硫黄は火薬の材料として輸出されました。

 

 

 このような日宋貿易を後押ししたのが平清盛でした。清盛の父である忠盛も博多周辺での貿易に関わって富を蓄えましたが、清盛は摂津国の大輪田泊に宋船を呼び寄せ本格的に日宋貿易に取り組んだのです。宋への輸出品の水銀や真珠が平氏の本拠地であった伊勢の名産品であったことも重要です。1169年には清盛は後白河上皇を福原の別荘にまねき、大輪田泊にきた宋人と面会させています。また、宋との交流は物だけでなく人にも及びました。栄西らの僧も宋へと渡ったのです。