鎌倉時代、他国(大陸)からの接触

9世紀に遣唐使が廃止されてから日本は外国と外交関係を結んでいませんでした。しかし中国大陸や朝鮮半島とは人やモノの活発な行き来があり、様々な情報がもたらされました。そのなかでも強烈なアプローチを仕掛けてきたのはモンゴル皇帝のフビライ=ハンでした。

 

 

 フビライの祖父チンギス=ハンは13世紀初めにモンゴル高原の遊牧民を統一してモンゴル帝国を築きました。さらに各地に遠征軍を送り、東ヨーロッパや西アジアまで勢力を広げます。東アジアでも金や西夏を滅ぼし、朝鮮半島の高麗を支配下に置きました。1260年に第5代皇帝に即位したフビライは帝国の首都をモンゴル高原のカラコルムから大都(現在の北京)に移し、宋の攻略に取り掛かりました。

 

 

 そのフビライが1268年に日本に国書を送ってきたのです。内容は日本との友好関係をもとめるものでしたが、「武力に訴えるようなことはしたくないものである」という軍事攻撃の可能性を秘めた内容でした。

 

 

 フビライの国書に驚いた朝廷では、毎日対応が話し合われましたが、結局返事を出さないことに決めました。他国とは外交関係を結ばないというこれまでどおりの方針でしたが、フビライはあきらめませんでした。その後も毎年のように使者を送ってきますが朝廷・幕府ともどもモンゴルを無視する方針は変えず、相手にしませんでした。モンゴルの使者も「日本相手に交渉しても無益」という報告をフビライにしていました。

 

 

 そのころ、朝鮮半島から重要な連絡が来ています。高麗の三別抄という軍隊から来たものでした。モンゴルは1230年代から朝鮮半島に攻め込んでいました。高麗政府も首都を開京から江華島に移すなどして抵抗しましたが、30年近くにわたるモンゴルの侵略により「骸骨が大地を覆っている」と言われるほど国土が荒れ果てました。ついに高麗国王はモンゴルに降伏し、その支配を受け入れることを決めました。しかし一部の軍人たちはこの決定に従おうとはしませんでした。その中心が高麗国軍の精鋭部隊だった三別抄です。国王の説得にも応じず、「モンゴルを倒して高麗を救え」と反乱を起こし、モンゴルの支配に立ち向かいました。その三別抄が1271年9月に日本に助けを求める使者を送ってきたのです。

 

 

 ところが朝廷や幕府は三別抄の使者も無視します。そもそも三別抄の反乱や救援依頼の内容がわかっていなかったようです。高麗はモンゴルの支配下にありましたので、その国の軍隊が助けを求めてくるということが理解できなかったのでしょう。1273年4月についに三別抄が滅ぶとフビライは日本攻撃を本格化します。