鎌倉時代の農村と荘園

 鎌倉時代の成立によって、各地の荘園や公領は都の貴族や大寺社のほか、幕府の領地にもなりました。武士たちも荘官や地頭に任命され、館をつくったり代官を派遣したりして領地を支配していました。たとえば寺の荘園に地元の有力武士が地頭に任命されて支配するということもあったのです。

 

 

 荘園や公領からは年貢や公事が領主におさめられました。公事とは年貢などの租税以外の税のことです。年貢は水田の面積を基準にしておもに米でおさめられ、公事は領主のもとめに応じて荘園の特産物がおさめられました。紀伊国では栗や紙、桶などの木製品や材木などがおさめられた記録が残っています。また、領主のもとに出向いて工事や農作業をさせられることもありました。

 

 

 こうした年貢や公事を生産しておさめていたのは荘園や公領の住人たちで、彼らは「百姓」と呼ばれていました。百姓に対する取り立ては厳しいものでした。寺社などの領主は年貢をおさめなければ神仏の罰がくだると百姓を脅しました。武士はもっと強引に百姓の家族を捕らえ、暴力に及ぶことで力づくでおさめさせようとしました。こうした捕らえられた百姓のなかには罰金を取られたり、下人にされたりするものもいました。下人になると自由に生活することはできず、武士のもとで強制的に働かされたり別の人間に売られたりしました。

 

 

 しばしばおこった飢饉も百姓たちの生活を脅かしました。飢饉のときには生き延びるために家族や自分自身を売って下人になるものさえいました。普段は百姓をいたわることを説き、人身売買を禁止していた鎌倉幕府も13世紀前半の寛喜の大飢饉のときには、黙って見逃さなければいけないほどでした。

 

 

 しかし百姓たちは苦しめられていたばかりではありません。団結して山林やとなりの荘園に逃げ込んで地頭に抵抗し、その不当な取り立てを都の領主に訴えるものもいました。このように鎌倉時代になると百姓は団結し、集団で逃亡したり、連名で領主の代官や地頭の不法行為を訴えたりするようになります。彼らの団結を支えたのが「一味神水」という方法でした。「一味神水」とは神仏の前で団結を誓った文書を書き、その紙を焼いた灰を水にまぜて全員で回し飲みすることで団結を強めることです。

 

 

 このように結びつきを深めた百姓たちによって、村の集まりが形作られていきました。鎌倉時代なかばになると独自の掟を定める村もあらわれてきます。百姓たちは村という共同体を頼りに力を合わせて生きていくことを身につけていくのです。