和歌の家と藤原定家

 

 京都御所の周辺には江戸時代までは公家の屋敷が立ち並んでいましたが、現在はすっかりなくなってしまいました。そのなかで、いまでも残っているのが冷泉家の屋敷です。冷泉家は和歌を代々の家業とする家柄で「和歌の家」の伝統がいまも受け継がれています。

 

 

 冷泉家が「和歌の家」とみなされるようになったのは平安時代の末から鎌倉時代の初め頃のことです。そのときの当主であった藤原俊成・定家父子は歌人としておおいに活躍しました。数多くのすぐれた和歌を詠み、ほかの歌人の指導をしたり、和歌に関する書物をまとめたりするなど、和歌の世界に多大な影響を与えました。そうした活躍が認められ、俊成は「千載和歌集」、定家は「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」という勅撰集を編纂しています。勅撰集とは天皇や院の命令を受けてまとめられた和歌集のことで、その編纂を任されることは和歌の世界の第一人者として認められることでした。

 

 

 定家は「明月記」という日記を書き残しています。公家の日記は朝廷で行われる儀式の手順などが詳しく書かれているものが多いのですが、明月記には定家の身の回りの出来事や噂話などが記されていて興味深い内容になっています。

 

 

 また、思うように出世できないことに対する不満や悩み、他人に対する悪口など定家の思いが率直に書かれているのも明月記の特徴です。後鳥羽上皇からしばしば和歌会への出席を求められるのを光栄と感じながらも「こう何度も呼び出されては体がもたない」などとぼやいていたりもします。あとつぎ息子の為家を気に掛ける記事も書かれています。幼いころの為家はよく病気にかかりましたが定家はそのたびに大変心配し、医者に見せたりこまかに病状を記したりしています。また成長した為家が蹴鞠に熱中して和歌づくりに励まないことも定家を悩ませました。父子2代で築いてきた和歌の家をなんとしても子孫に残したいという定家の思いが伝わります。そんな定家の思いが通じたのか、のちには為家も勅撰和歌集「続後撰和歌集」「続古今和歌集」などの編纂を命じられるなど立派に和歌の家を継いでいきました。

 

 

 また定家は「源氏物語」や「伊勢物語」「古今和歌集」などの古典作品を数多く書き写したことでも知られています。実は定家が書き写したおかげでその本文が現在に残っている文学作品も多く、古典文学を伝えるという面でも定家は大きな役割を果たしていたといえるのです。