法然のもとに弟子入りしたのが親鸞です。親鸞は下級貴族の家に生まれ、9歳で出家して延暦寺で修行していました。しかし、法然に出会って延暦寺を離れて活動するようになりました。法然の教えをさらに深め、阿弥陀如来への信仰がほんとうの仏法であり、人々が救われる道は念仏しかないと主張しました。

 

 

 法然や親鸞の布教活動は延暦寺や興福寺など寺院社会の反感を買い、法然も親鸞も島流しにされるなどの弾圧を受けました。念仏にのみ偏っている点が批判されたのです。しかし、深い教育を受けていなくても唱えるだけで救われるという教えは、不安を抱えている庶民の間に確実に広がっていきました。さらに親鸞は越後国に流されたのをきっかけに東国へと布教の範囲を広げていきました。法然や親鸞が説いた教えは、のちに浄土宗・浄土真宗として発展していくことになりました。

 

 

 法然たちの布教活動を批判した寺院社会の中からも新しい動きがありました。そのひとりが興福寺の僧の貞慶です。法然たちの活動禁止を朝廷に訴え出たのをきっかけに、貞慶は戒律を重んじる姿勢を打ち出しました。戒律とは僧が守らなければいけない厳しい日常生活のきまりごとです。たとえば酒を飲んでもいけない、肉・魚を食べてはいけない、物惜しみして財産を蓄えていけないなどが定められていました。しかし、この当時実際には戒律はあまり守られていませんでした。貞慶は法然たちを批判するだけでなく、自分たちも反省し戒律を守ることによって寺院社会が本来持っていた姿を取り戻そうとしたのでした。

 

 

 さらに国外からも新しい動きが入ってきました。禅宗です。栄西は2度宋にわたり、宋で盛んだった臨済宗という禅宗の教えを持ち帰りました。栄西は「喫茶養生記」を書き、そこで茶の種類や効用について説き、日本に喫茶の習慣を広めたと言われています。栄西が京都に開いた建仁寺で学んだ道元も、のちに宋にわたり、曹洞宗という禅宗を学んでかえりました。禅宗も延暦寺などから弾圧を受けましたが、しだいに人々の信仰をあつめていきました。

 

 

 さらに日蓮宗(法華宗)を開いた日蓮がいます。日蓮は他宗派との軋轢や幕府を批判したりした件などで流罪にされることもありました。その際に著されたのが「立正安国論」です。実際に処刑される寸前にまでなりました。

 

 

 このように鎌倉時代初めの仏教界では様々な動きが見られましたが、さらに鎌倉後半になるとあらたな動きを見せるようになっていきます。