平治の乱と平氏

平清盛とともに保元の乱の功労者として昇進した源義朝も信西と距離をおくようになっていました。このように信西と対立する人々が次第に増え、彼らはついに団結して信西をたおす行動をおこします。1159年(平治元年)藤原信頼、源義朝らは平清盛が熊野詣に出かけた隙に信西を襲撃し、二条天皇と後白河上皇を内裏に移して身柄を確保し朝廷の実権を握ったのです。信西は一度は逃げましたが、信頼方に発見され首を斬られました。

 

 

 しかし、清盛が京都六波羅の館に戻り、伊勢国・伊賀国の部下を集めだすと二条天皇たちはあっさりと信頼を見捨てます。源義朝の軍勢も清盛との合戦に破れ、信頼は首を斬られました。源義朝も東国に逃げる途中尾張国で部下に裏切られて殺されます。義朝の子供たちも捕まっていきます。長男の義平は処刑され、頼朝は伊豆国に流罪、小さい弟たちは京都の寺などに預けられました。この事件が「平治の乱」です。この結果、側近だった信西と信頼を失った後白河上皇は打撃をうけ、河内源氏の勢力は衰えます。一方、平清盛がひきいる伊勢平氏は勢力を強めていきます

 


 清盛は公卿の身分を与えられて朝廷のなかで出世を続け、1167年には朝廷で最高の役職である太政大臣にすすみます。この年、清盛や清盛の子である重盛をはじめ平氏一族の5人が公卿になります。さらに国家の軍事・警察権も清盛が握りました。

 

 

 平治の乱のあと、二条天皇は後白河上皇の院政を停止して自分が中心となって政治を動かします。そして1165年には子の六条天皇に譲位しました。しかし、その直後に二条が亡くなったため後白河上皇の本格的な院政がはじまりました。

 

 

 清盛は後白河と協調しながら1168年には後白河の子である高倉天皇に即位を実現します。高倉天皇は清盛の妻である平時子の妹にあたるため、高倉天皇の即位によって清盛の発言権はさらに強くなりました。

 

 

 この年、清盛は大病をきっかけに出家していて政治の表舞台には出てきませんでした。しかし、時子の弟の平時忠が清盛の意思をうけて行動していました。公卿たちは清盛の権力を恐れたため時忠は「平関白」とよばれるほどの勢いを持ちます。時忠は「平氏一門でなければ人ではない」と言ったと伝えられています。さらに清盛は娘の徳子を高倉天皇に嫁がせることに成功しました。その清盛は安芸国にある厳島神社を熱心に信じていて平氏一門の発展を願って33巻の経典をおさめました。この経典は「平家納経」と呼ばれています。