平和到来の象徴である大仏や大仏殿の再建も、庶民の力がなくてはありえませんでした。後白河上皇からその再建を任されたのは重源という僧でした。彼は朝廷や幕府に協力を呼びかけるだけでなく、広く庶民からも寄付をつのる勧進という方法で資金を集めて再建にこぎつけたのです。大仏の開眼会には勧進に応じた数多くの人々がつめかけました。

 

 

 なお大仏再建にあたっては重源は自分自身が3度も宋にわたったという経験をいかして宋の技術を取り入れています。宋人の技術者を招いて大仏の制作にあたらせたほか、そのころの宋で流行していた方法で建物を作らせました。大仏と大仏殿は残念ながら戦国時代にまた焼かれてしまい、現在の大仏と大仏殿は江戸時代の再建です。しかし、東大寺の南大門や兵庫県小野市の浄土寺浄土堂は重源が作らせたもので、大仏様(天竺様)といわれるそのころの建築様式を今に伝えています。

 

 

 鎌倉時代初めには仏教界でも新しい動きが始まります。時代の大きな変わり目にあって不安を感じた人々が心のすくいを求め始めたのです。まずそれにこたえたのが聖とよばれる僧でした。

 

 

 そのころの寺院は、数多くの荘園や僧兵をかかえ、貴族出身の僧が高い地位につくなど、公家社会と変わらない状況でした。こうした寺院社会を離れて独自の宗教活動を目指したのが聖です。

 

 

 大仏再建に力を尽くした重源も聖の一人です。醍醐寺で出家したあと諸国で修行にはげみ平安時代初めに真言宗を開いた空海の足跡をたずねて宋にも渡りました。特定の寺院に属さない、その自由な立場が様々な人々への勧進活動を可能にしました。重源は大仏再建というかたちで人々の心を救おうとしたのです。

 

 

 一方、阿弥陀如来を信仰する浄土教を徹底したのが法然です。平安時代に流行した浄土教です。「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来の名前を唱えることを念仏といいますが、法然は念仏だけで人々は救われると説きました。もともと阿弥陀如来は人々の救済を目指しているありがたい仏さまなのだからその名前を唱えて阿弥陀如来の慈悲にすがればよいという教えです。

 

 

 美作国久米の武士の家にうまれた法然はおさないときに父を亡くしたあと出家して比叡山延暦寺に入ります。そして延暦寺の中心からはなれた黒谷という地で浄土教の研究にはげみました。その結果、法然は「人は念仏によってのみ救われる」ことを確信し、比叡山をおりて、人々に念仏を唱えることをすすめる旅にでたのです。