大仏再建と新古今和歌集

治承・寿永の内乱(1180〜85)は朝廷の公家社会にも大きな影響をあたえました。諸国からの年貢は途絶えがちになり、同時に大飢饉にも襲われたため京都の町は餓死者であふれました。鴨長明の随筆「方丈記」には、ある僧が町中に打ち捨てられた死者の額に梵字を書いて供養してまわったところ、たった二か月でその数は42300以上にのぼったとされています。

 

 

 また、平氏が天皇の地位のしるしである三種の神器を持ち去っていたため後鳥羽上皇は三種の神器なしで即位しなければいけませんでした。
 しかし、内乱で朝廷の力がすっかり衰えてしまったわけではありません。そのことをよくしめすのが東大寺の大仏の再建です。

 

 

 東大寺の大仏は内乱さなかの1180年冬、平氏による奈良焼き討ちによって大仏殿とともに焼け落ちてしまいました。奈良時代に国の平安を祈ってつくられた大仏の焼失は朝廷にとって衝撃的な出来事でしたが、後白河上皇はすぐにその再建に取り組みました。源頼朝も御家人を率いて協力しました。

 

 

 1185年8月、後白河上皇も出席して行われた大仏に魂を迎え入れる開眼絵の儀式には数多くの人々があつまりました。大仏再建は人々の平和への願いが込められた国家の一大事業だったのです。

 

 

 後白河上皇につづいて院政を行った後鳥羽上皇は強い指導力を発揮して公家たちをひっぱります。なかでも後鳥羽が力をいれたのが和歌でした。後鳥羽のもとでは題をあたえられて和歌を詠み合う和歌会や、和歌の優劣をきそう歌合がさかんに行われ、藤原定家ら数多くのすぐれた歌人たちが登場しました。後鳥羽は定家らに命令して「万葉集」以来のすぐれた和歌を集めて「新古今和歌集」を編纂させました。

 

 

 後鳥羽のもとでは蹴鞠や音楽・書・絵画・舞など王朝文化の様々な分野で活動が盛んになりました。これらは特定の貴族の家に家業としてつたえられるようになります。こうした芸能の家は朝廷の華やかな文化を支えました。

 

 

 その影響は武家社会にもおよびました。第3代将軍源実朝が和歌づくりに熱中したように王朝文化は武士たちにとっても憧れであり、後鳥羽上皇は文化を通じて東国の幕府や武家社会を朝廷のもとに従えようとしていたのです。実朝もみずから「金槐和歌集」を編纂していることをみても、それがわかります。

 

 

 その後、後鳥羽は実力で幕府を押さえようとして承久の乱を起こし、失敗しましたが、そのころから公家の文化に新たな特徴がみられるようになっていきます。