承久の乱の後、朝廷では後鳥羽上皇に背いてまで幕府に協力した西園寺公経が幕府からの全面的な支援を受けて政権の中心となりました。承久の乱の結果、東国中心の政権だった幕府の力が朝廷や西国にも及ぶようになったのです。

 

 

 承久の乱に勝利をおさめた幕府でしたが、将軍になる予定の九条頼経はまだ幼く、源頼朝の妻で頼家・実朝の母である北条政子がしばらくは将軍のかわりをつとめることになりました。政子が征夷大将軍に任命されたことはありませんが、鎌倉時代の終わりごろに書かれた歴史書などでは実朝の次の将軍を政子としており、政子が実際に幕府の最高責任者の役目をはたしていたことがわかります。政子はのちに時代には「尼将軍」ともよばれるようになります。そして、弟の義時が執権として政子を補佐したのです。

 

 

 1224年、執権北条義時が亡くなると京都で六波羅探題をつとめていた子の泰時が鎌倉へ呼び戻され、執権になりました。翌年には政子が亡くなります。執権泰時は自分ひとりで強力な政治を行うことは無理だと考え、有力御家人が合議するあたらしい政治のしくみをととのえました。

 

 

 まず「連署」という執権を補佐する役職をおき、六波羅探題をつとめていた叔父の時房を鎌倉へ呼び戻してこの職につけます。また、執権・連署と評定衆とが合議して制作を決定する評定会議の制度を作りました。評定衆は十数名の有力御家人と法律や事務に詳しい官僚で構成されました。評定会議は執権が開く会議で、将軍は出席せず、あとで会議の結果を承認するだけでした。評定会議の開始によって執権は将軍の補佐から、政策を決定する幕府の中心へと変わったのです。執権を中心とする合議制の政治のしくみを「執権政治」といいます。

 

 

 つづいて泰時は1232年に評定会議での判断の基準になる「御成敗式目(貞永式目)」という法律集を定めます。御成敗式目は御家人が関係する事件にだけもちいられる法律で、裁判を公平なものにするため、武士のならわしにもとづいてさだめられました。たとえば「土地を実際に所有して20年間がすぎれば、もともとの権利があってもなくても、その所有はみとめられる」というのもその一つです。御成敗式目は51条の条文からできており、終わりの部分には公平な政治を行うという近いの言葉が記され、評定衆11名と執権北条泰時・連署北条時房が署名しています。

 

 

 泰時の時代は北条氏が独裁的な政治を行うようになる前のわずかな合議制の時代でした。

執権政治と御成敗式目