源実朝の暗殺

源実朝の信頼をうけて活躍したのが相模国の有力御家人である三浦氏の一族で侍所別当の和田義盛です。しかし義盛の力が強くなるにつれて執権の義時と対立するようになり、1213年に義盛は北条氏打倒の兵を挙げます。義時は、和田一族の本家の三浦義村と連携して義盛を討ち取り和田一族は滅びました。これを和田合戦といいます。

 

 

 和田合戦によって側近の義盛をうしなった実朝ですが、実朝と親密な関係にあった後鳥羽からは貴族の荘園の収入を確保するために地頭の解任要求がたびたびもちこまれました。実朝は要求を受け入れることもありましたが、御家人の権利を守るために後鳥羽の要求を拒否しなければならないこともありました。実朝は御家人と後鳥羽の間で苦しむことになります。さらに実朝には子供がいなかったため将軍の跡継ぎ問題もありました。

 

 

 様々な問題が出てくる中で実朝は高い位と官職を朝廷からもらうことに熱中するようになり、和歌にも没頭しはじめ、さらに大型船を作らせて自分みずからが宋へ渡る計画を立てるようになります。これは船に欠陥があってうまく海に浮かばずす失敗に終わりますが、実朝の現実離れした行動は御家人たちからの信頼を失わせていきます。そんな中、1219年に実朝は右大臣に任命されました。これを祝う儀式が京都から大勢の貴族が参加して鎌倉の鶴岡八幡宮で盛大に行われました。

 

 

 しかし、その最中に兄の頼家の子である公暁によって実朝は暗殺されます。実朝が頼家にかわって将軍になったことから公暁は実朝を親の仇として憎んでいたのです。公暁は実朝を討ったあと、三浦義村を頼って自分が将軍になろうとしたのですが、逆に義村に討ち取られました。

 

 

 この事件の黒幕については公卿を将軍にして後ろであやつろうとした義村であるという説や、頼朝の直系子孫である実朝と公暁の両方を滅ぼして幕府の実権を握ろうとした北条義時であるという説がありますが、どちらもはっきりとした証拠はなく真相は不明です。いずれにしても頼朝以来の源氏の血統は途絶えてしまいました。

 

 

 実朝の死後、北条政子は後鳥羽上皇のもとに使者を送り、後鳥羽の子を将軍として鎌倉へ迎えたいと願い出ます。しかし親密だった実朝が亡くなったことで後鳥羽は幕府に協力する気をなくしており政子の要求も拒否します。それだけではなく後鳥羽はお気に入りの遊女にあたえた荘園に関して地頭の解任を幕府に要求しました。執権の義時がこれを拒否したため、後鳥羽と幕府の関係は険悪化していきます。