後鳥羽上皇と実朝

1203年、源頼家が重病になると北条政子と父の時政は頼家が持っていた将軍の権限を一幡と頼家の弟である実朝に分割して相続させようと計画しました。

 

 

 比企能員は頼家の権限をけずる計画に反発しますが、時政によって一幡とともに滅ぼされてしまいます。頼家は伊豆国の修善寺に追放され、後に暗殺されます。そして実朝が第3代の将軍になり、時政は御家人の代表として将軍を補佐する執権の地位につきました。

 

 

 後鳥羽天皇は1198年に子の土御門天皇に位を譲り院政をはじめました。後鳥羽上皇はさきに源通親によって政治の中心から遠ざけられていた九条家を復活させ、九条兼実の子である良経を左大臣に任命しました。そのいっぽうで通親も内大臣に昇進させ、二つの勢力を並び立たせたのです。

 

 

 後鳥羽は弓や馬などの武術の訓練を好み、和歌や琵琶、蹴鞠など色々なものに優れていました。政治も人に頼らず自分で行いました。1202年に源通親が急死してからは、いっそう後鳥羽の独裁振りが目立つようになります。1210年には土御門に譲位させて後鳥羽がかわいがっていた土御門の弟の順徳天皇を位につけました。

 

 

 鎌倉では1204年に将軍の源実朝が京都から妻をむかえることになりました。相手は後鳥羽の側近である坊門信清の娘です。彼女の姉である坊門局は後鳥羽の妻になっていたので実朝と後鳥羽は義兄弟になったのです。この縁談は後鳥羽が中心になって進めていたもので幕府の最高権力者と親類になることで幕府との距離を近づけようとしていました。後鳥羽と実朝は和歌を通じてさらに親密な関係になっていきました。

 

 

 ところで執権の北条時政の後妻である牧の方の娘婿に平賀朝雅という人物が居ました。朝雅は源氏の一族であり、時政のあとおしで京都守護に任命され、後鳥羽にも仕えていました。このころの時政は有力な御家人に謀反の疑いをかけて攻め滅ぼすなど強引な政治運営が目立ちます。1205年には実朝にかえて平賀朝雅を将軍にしようとする時政夫妻の計画があきらかになります。

 

 

 北条政子と弟の義時は二人とも時政の子でありますが、先妻の子であり、牧の方とは血のつながりはありません。そのため牧の方の力が強まることを恐れた政子と義時は時政を伊豆国へ追放し、京の平賀朝雅を討ち取ります。そして義時が執権となり実朝を補佐することになりました。これから幕府において執権の職は幕府が滅びるまで北条氏が独占します。なかでも義時の直系は「得宗」と呼ばれて権力を持つようになります。