朝廷と幕府の動揺

1192年に後白河上皇が亡くなり、後鳥羽天皇が政治を行うようになりました。院政がふつうの政治のかたちと考えられていたこの時代としては珍しいことでした。実際には頼朝の後援を受けた関白の九条兼実が朝廷の実権をにぎっていました。兼実は以前から頼朝と親しく、1186年には頼朝の後押しで摂政に任命されています。また、兼実の取り計らいで頼朝が征夷大将軍に任命されているということも二人の親密さをあらわしています。

 

 

 後白河の強大な権力のもとでは兼実も思うようには活動できませんでした。しかし後白河の死後に兼実が独断で政治を行うようになり、貴族のあいだで動揺が起こります。兼実に反発するかつての後白河の近臣たちは公卿のひとり源道親を中心に反兼実派をつくりました。

 

 

 1195年、平氏に焼かれた東大寺大仏殿が再建され、その法要のために頼朝は京都に上りました。東大寺の再建は後白河がおもに資金や材料を提供していましたが、彼の死後は頼朝が提供していたのです。このとき頼朝はもう一つの目的を持っていました。それは娘の大姫を後鳥羽天皇に嫁入りさせるための交渉です。しかしこの交渉は失敗しました。

 

 

 頼朝が鎌倉へ帰ったあと、源通親の養女在氏と後鳥羽とのあいだにうまれた皇子(のちの土御門天皇)が生まれたことから、朝廷内で通親の力が急速に強まります。力をつけた通親は後鳥羽を味方につけて兼実に関白をやめさせることに成功します。頼朝はこの政変を見守りながら大姫の嫁入りの機会をうかがいますが、1196年に大姫が病死してしまいました。

 

 

 頼朝が娘を天皇に嫁がせようとしたことは平清盛のように自分が天皇家の一員になろうとしていたことを意味します。しかしそれがうまくいかなかったことで幕府と朝廷が一体化することはなく、結果的には武士の政権は独立して長期間続くことになりました。

 

 

 1199年、頼朝が急死します。頼朝の死後、あとをついで第2代将軍になったのは頼家でした。このころの御家人には頼朝個人に従っているものも多く、頼家にはそれを押さえていく指導力はありませんでした。このため13人の有力な御家人が集まって会議をする「合議」をおこなったのち、頼家が決定をくだすという政治のかたちがつくられました。

 

 

 頼家は御家人、比企能員の娘を妻にしていて一幡という子がいました。そのため比企氏の力が強くなり、頼朝の妻の政子の実家である北条氏とのあいだに対立が生じるようになっていきました。