11、鎌倉幕府のしくみ

鎌倉幕府という政権をささえる根本は「御家人制」という主人と家来の関係でした。幕府の最高責任者である源頼朝の家来になった武士は御家人という身分になり、頼朝から各地の守護や地頭に任命されました。地頭という役職を利用して御家人は荘園や公領のなかの決められた土地と、そこに住む人々を支配することができたのです。

 

 

 地頭はもともとは荘園の所有者や受領から命じられて荘園や公領を管理する役職のひとつです。しかし、頼朝は挙兵したのち味方になった武士を荘園の所有者や受領に断りなく地頭に任命しました。そのため荘園の所有者や受領からは地頭の廃止を求める訴えが朝廷に出されました。

 

 

 朝廷と頼朝の交渉の結果、1186年に頼朝や幕府に敵対した謀反人が管理していた場所に限って頼朝が地頭を任命することが認められました。頼朝が敵対する武士を討ち取ったのち、その武士が拠点としていた荘園や公領に自分の家来を地頭として任命することが正式に決められたのです。

 

 地頭に任命された御家人はその土地から決められた額の収入を得ることができたほか、そこに住む人々から臨時の税を取ることができました。御家人は頼朝の保護を受けることができたかわりに合戦の時には戦場に駆けつける義務がありました。また、ふだんは交替で内裏の警備をつとめる「京都大番役」が義務づけられました。

 

 

 御家人を管理する役所として侍所が1180年に設置されました。つづいて文書を作ったり財政を管理する公文所が置かれ、のちに政所と改名されました。また、裁判を行う問注所も設置されました。これらの役所の職員には朝廷に仕えていた官僚たちが多く起用されました。さらに京都での幕府の代表として京都守護が置かれ、朝廷との交渉や京都の街中の警備を担当しました。

 

 

 幕府がおかれた鎌倉は京都と違って元々は小さな集落でした。ただし、まったくの荒野だったわけではなく広大から郡衙が置かれるような地域の中心でした。源頼朝の先祖である源頼義は鎌倉を拠点として活動し、守り神として1063年に鶴岡八幡宮をつくりました。頼朝の父である義朝は鎌倉の亀谷に館を作って東国に勢力を伸ばしました。このように先祖代々の本拠地であったので頼朝は鎌倉へ入り、幕府を設置して本格的な御所を造ったのです。鎌倉は東国の中心都市として急速に発展しました。

 

 

 鎌倉は東西と北の三方を低い山が囲み、南側が海に面しています。そのため陸路で鎌倉に入るには山の尾根をけずってつくられた「切り通し」とよばれる坂道を通るほかに道はありませんでした。