奥州藤原氏滅亡と幕府成立の流れと人物

源頼朝からの圧力を受け続けた藤原泰衡はそれまで保護していた源義経を攻めて自殺に追い込みました。しかし頼朝の本来の目的は奥州藤原氏を滅ぼすことだったため、頼朝は朝廷の許しのないまま大軍を率いて出陣しました。これを奥州合戦といいます。

 

 

 平泉方が防衛線として築いた阿津賀志山の土塁と堀を突破した頼朝軍は平泉を占領しました。泰衡は逃げましたが家来の裏切りにあって首を取られます。頼朝はついに奥州藤原氏を滅ぼし、全国の武士を従える立場になったのです。

 

 

 源頼朝は奥州合戦に勝って、1180年からはじまった「治承・寿永の内乱」と呼ばれる長期の戦いを終わらせました。頼朝は1190年に大軍を率いて鎌倉から京都へ上ります。頼朝一行の盛大な行列を人々はあらそって見物し、後白河上皇まで隠れて見物していたようです。

 

 

 後白河上皇に対面した頼朝は右近衛大将(右大将)という朝廷を守る軍人の責任者の役職に任命され、鎌倉に戻りました。そして1192年には頼朝が征夷大将軍に任命されます。少し前まで教科書では1192年の頼朝の征夷大将軍任命で幕府が成立したと説明されていました。「イイクニつくろう鎌倉幕府」という語呂合わせ年代暗記も有名です。これは中国で昔から「出陣した将軍の居場所」を「幕府」といったことや、日本の幕府の歴代の長が征夷大将軍に任命されるのが慣例だったことが関係しています。現在では頼朝の支配は段階を踏まえて行われていったため、1192年という年に限定することはなくなってきています。

 

 

 鎌倉幕府が成立したあと日本では室町幕府、江戸幕府と武士の政権が続きました。武士の政権が700年にわたって続いたのは東アジアでは他に例がないことです。東アジアでは政治を運営するのは学問・知識にすぐれた官僚で、軍人の政治的地位は低いのが普通でした。軍人が力をもつのは、内乱や外国との戦いなど国家が危険にさらされたときに限られていたのです。

 

 

 たとえば中国では10世紀に唐が滅んだのち軍人が王位を奪って建てた王朝が乱立しましたが、宋王朝が統一を果たすと再び官僚中心の国家になりました。また、朝鮮半島では12世紀に軍人が政変により高麗王朝の中心になりますが、短期間のうちにモンゴル軍の攻撃や国王との対立のなかで滅んでいきます。

 

 

 これに対して日本では軍人である武士の政権が内乱の中でかたちを整え、そのまま貴族や官僚が運営する朝廷と並び立つ状態が定着していったのです。このように頼朝が朝廷の組織とは別の新しい政権を作り上げたため武士の政権は安定していきました。