青年将軍義尚

応仁の乱は、幕府のありかたを大きく変えました。これまで大名が幕府の命令に従っていたのは将軍が守護職の任命権を持っていたからです。しかし、乱が終わると大名たちはみな自分の分国に戻り、実力で国を支配することを目指すようになりました。その結果、大名は幕府の命令をむしろ自分の支配を邪魔するものと考えるようになっていきます。

 

 

 大名たちが幕府の命令を聞かなくなることは将軍だけでなく、朝廷や寺社にとっても大きな問題でした。朝廷や寺社のもっとも重要な収入源である荘園は鎌倉時代、南北朝時代を通じてかなりの部分を武士に奪われましたが、室町幕府は残りの部分を保護する政策をとってきました。

 

 

つまり、朝廷や寺社が持っている地方の荘園を武士が実力で奪い取ろうとした場合、幕府は守護に命令してやめさせていたのです。守護である大名が幕府の命令に従わなければ荘園から朝廷や寺社に入る収入は減ることになります。

 

 

 

 荘園を収入源にしていたのは武士も同じです。中小規模の武士の多くは、大名の家臣になっていました。しかし、鎌倉時代の御家人の子孫など有力な武士のなかには地方の荘園から収入を得ながら将軍に直属する武士として京都に住んでいたものが多くいました。

 

 

3代将軍義満の時期から将軍に直属する武士は次第に将軍が直接に指揮をする軍隊として整えられます。彼らは奉公衆と呼ばれました。そのほとんどは応仁の乱の後も京都にとどまって将軍に従いました。

 

 

ところが幕府の命令が地方に及ばなくなってくると彼らの収入も減ってくるのです。

 

 

 

 それだけに朝廷や寺社、奉公衆の中からは将軍が中心となって幕府を再び強化することを望む声が強く上がりました。

 

 

この期待に応えようとしたのが9代将軍足利義尚です。義尚は8代将軍義政と富子のあいだにうまれ、応仁の乱の最中に9歳で将軍になりました。

 

 

ただし将軍になったからといって必ず政治を行うわけではありません。3代将軍の義満も子の義持に将軍職を譲ったのちも14年間も政治を行いました。その間、義持は名ばかりの将軍だったのです。

 

 

政治に関心をあまり示さなかった義政も政治の権利をすべて義尚に譲らなかったため、義尚には課題ができてしまうのです。

 

 

 まず、将軍として政治の実権をにぎること。もうひとつは実力を示して大名が幕府の命令に従うようにすることです。このふたつの課題を一挙に解決するためにとった方法が近江国守護の六角氏を征伐することでした。